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発売日を待ち焦がれる本がある幸せ。

光文社さんから、あさのあつこさんの「弥勒」シリーズ新刊を贈っていただいた。
すでに書店に平積みされている『乱鴉の空』は、累計100万部を突破している時代小説「弥勒」シリーズ最新第11刊だ。
前作『花下に舞う』が2021年3月30日発刊だったから、待つこと1年半。

その間というか、あさのあつこさんの「弥勒」シリーズの存在を知ってからは、本屋さん徘徊の終わりに時代小説コーナーをチェックすることが習慣になっていて、元本屋関係者ですから新刊出版のサイクルは理解しているはずなのに、どうしても棚廻りがやめられない。
それなのに、そのことを重々承知のうえで、たった一日半で読了するとはいったいどういう了見なのか...

あさのあつこさんに動画インタビューをお願いした際に、事前に幾つか作品を読ませていただいた。
失礼なことに『バッテリー』でブレイクスルーされた小説家程度の予備知識しかなく、それゆえと言えるかもしれないが、あさのさんの時代小説を一読して、これは只者じゃない、亡くなられた児玉清さんが絶賛されるのも無理からぬ!と納得。

『弥勒の月』という傑作がある、ぼくにとっての。
あさのさんが初めて書かれた時代小説で結果的に「弥勒」シリーズの第一巻になるのだが、そんな構想も無く執筆してみたら、書かれたご本人、登場人物の生みの親が、彼らの内面がよく分からない、彼らがこれからどう動くのか見てみたい、と第二巻『夜叉桜』へと続いたのだと仰っていた。

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一読して唸った。「う~ん、これは...」と。
時代小説はかなり読み込んできたつもりだが、読者が安心して物語に没入できる時代小説の“型”とか、あの作品、作家の“流れ”といったものが欠けらもない。
強いて言えばモノクロームのヌーベルバーグ、ジャン・ギャバンあたりは出てきそうなギャング映画を想起させられた。
あさのあつこという作家の時代小説は、ジャンルとか形式といった旧来の枠組みには収まらない“新種”なのではないかと思った。

ヌーベルバーグと言っておきながら、ベネディクト・カンバーバッチ「SHERLOCK」を引っ張り出して申し訳ないが、こちらを観客を次々と欺く斬新な心理戦、人間の記憶の脆弱さを突く推理展開の速さに驚かされたが、なにか、『弥勒の月』、「弥勒」シリーズに同じ臭い、触ったことを後悔しそうな同じざらっとした手触りを感じてしまった。手触りの元は三人の男たち。


北定町廻り同心、木暮信次郎。その手下の伊佐治親分。江戸で評判の小間物屋主人の遠野屋清之介

三人が三人とも曲者で、その曲者具合に激しくそそられるのだ。

木暮信次郎は、たとえ事件が人殺しであっても単純な色恋沙汰、喧嘩のはずみ、金がらみの刃傷沙汰などという動機だと途端に興味を失い、伊佐治親分にちっとは身を入れてくだせえ、と小言を言われてしまう孤狼のような同心。

虚無とも違う。諦観などという通り一遍で片付くような男ではない。謎が深ければ深いほど、剣呑であればあるほど、相手が大きければ大きいほど、信次郎は冷徹に肉を抉り、追い詰め、平然と奈落へ突き落す。正直、11刊全部読んでいても掴めてはいない。

それに引きかえ、悪党には厳しいが基本的には人情家の伊佐治親分。小料理屋を営む女房、息子夫婦に囲まれ、家族、町内の住人みんなに頼りにされ、もう危ない稼業から足を洗ってもばちは当たらない歳なのだが、信次郎に言わせれば“俺と同じ、ひとの皮を剥いでその身内奥底で蠢くおぞましいものの正体を見届けたくてうずうずしている”のだと。伊佐治もそれを否定はしない。

そして、遠野屋清之介。
実の父親に幼少から政敵を抹殺する冷徹な殺人剣の使い手に仕込まれ、ひとを切り殺すことなど“木偶を切る”くらいにしか感じない殺人マシーンとしての過去を持つ男。藩を脱し江戸で出会った遠野屋の娘、りんによって“人間らしい”暮らしを知ることになる。清之介にとって凛はまさに弥勒、そのりんが水死体で発見されることに…

事件の係は、信次郎と伊佐治親分。
女房の骸に対面する清之介の様子を訝るふたり。女房殺しの下手人としてではなく、清之介という人間の歪さに反応する信次郎。
“このおれを退屈させない獲物が出てきやがった”とほくそ笑む。

これが「弥勒」シリーズのはじまりである。

『乱鴉の空』を読み終わり、『乱鴉の空』話をちっともせず、まことに申し訳ない、が今、また『弥勒の月』のページを開こうとしている。

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