見出し画像

ばら撒いた金平糖のように、平易で素敵なコトバが、そこここに散らばっている。

タイトルの「鯨オーケストラ」。
「港町のライブハウス」、「ローカルラジオ局」、「ロールキャベツ」、「チョコレート工場」、
「ベニー・グッドマン」と、「ベニー」っていう犬の魂も。

吉田篤弘さんが創り出す物語の町は、その何気なさが好ましく、いつもストーリーを離れて、ひとり散歩に出かける。これを、ぼくは脳内散歩と呼んでいる。

小説はどれも作り話だけど、吉田さんのようにぼくの脳内に町が出現する小説はそう多くはない。
ある小説家が「小説の肝は悪にあり」って言ってた。その通りだと思うのだが、吉田篤弘さんの小説には“悪”が出てこない。“悪意”も“悪人”も出てこない。
だから、町角を曲がった途端に一刀両断に切り捨てられることも、鉄砲でハチの巣にされることもなく、のんびり散歩できる。

蕎麦屋の暖簾が風に揺れている。クルクル廻る理髪店のサインポール。鉢替わりの発泡スチロールが並ぶ横丁。原っぱに野球のボールひとつ...
“むかし暮らしていた町によく似ている”、そんなことを想いながら物語のなかの町を歩いている。

フリードリヒ・ニーチェのコトバに、

「哲学者であることの条件はこの世の背後に第二の、眼に見えぬ現実があるという予感をもてるか否かにある」

というのがある。(まあ、賛否あるところだ...)
ぼくは哲学者ではないが、不可逆的に死に向かう日々を過ごしていると、“あの世”ではない、もうひとつの「時空の流れ」を感じる。「意識の流れ」なんて言うと、またややこしくなるので、ぼくは《選ばなかったもうひとつの世界》と呼ぶことにしている。

最初に散歩したのは、『つむじ風食堂の夜』だった。この町の食堂には、甘辛い醤油ベースの豚の生姜焼きをよく食べに行ったなぁ。
訳ありのひとたちが毎日のようにやって来ては、なんということもない夕暮れを共にしていた。
「月舟町」も、「つむじ風食堂」も、あの十字路も、みんな、ぼくが選ばなかった「もうひとつの世界」にちゃんとある。

いやぁ、ここで白状。
本著『鯨オーケストラ』を半分ほど読み進めた頃合いで、やっと気が付いた。どうも、このシチュエーション、出てくるひとたちが、みんなどこかで会ったことのあるひとたちだってことに。

そんなことは、とっくにご存知だったでしょうが、『鯨オーケストラ』は、『流星シネマ』、『屋根裏のチェリー』に続く三部作の最終冊でした!

いつもの手で、この三部作は図書館で借りて読みました。それも順不同で。
家人も読むだろうと、まず『屋根裏のチェリー』の文庫版を購入し、文庫はそのまま家人の書棚に。次に『流星シネマ』の文庫版を買って来て、いつか読み返そうとぼくの書棚に。そして、図書館から借りてきた単行本の『鯨オーケストラ』を半分ほど読み進めて気が付いたという、ぼけ老人と言われても仕方ない所業でござった。

どれでも一冊取って「あとがき」を読めば、三つの物語がゆるやかな“時空の流れ”のなかで、ゆるやかにつながっていて、町の、みんなの人生暦を刻んでいることに気付いたろうに。

でも言い訳をひとつ。
『流星シネマ』、『屋根裏のチェリー』、『鯨オーケストラ』は、それぞれ単独で楽しめる物語だってことが、ぼくの“発見”を遅らせたのだ、と。

という訳で、『鯨オーケストラ』にはこれ以上触れませんので、それぞれ存分にお楽しみを。


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?