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【長崎】第3回 被爆都市・平和都市として…

<第二次世界大戦と長崎の被爆> 

いよいよ、【長崎】の紹介は今回で最終回となります。これまで、江戸時代・明治時代と歴史を紐解きながら考えてきました。今回の舞台は昭和、被爆都市・平和都市としての長崎を見ていきます。

「第二次世界大戦」という考え方は非常に複雑で、日本としては、満州事変・日中戦争・太平洋戦争の3つにモザイク的に参加していたと考えたほうがよいです。

1931年に起きた満州事変の結果、日本は満州を実質的に支配しました。その後、当時の近衛内閣の時、1937年に「盧溝橋事件」が発生します。これは、軍事演習を行っていた日本軍が、「銃弾の音が聞こえた」ということで、中国との争いへと発展していきます。これが、「日中戦争」です。当時、近衛内閣はこの戦争をあまり大きなものとしたくはなかったようです、しかし、軍部の圧力もあり、戦争は拡大し、日本は軍事国家へと舵を切ることとなります。1938年には「国家総動員法」を制定し、戦争のために国家の資源や人員を調達できる仕組みを整えました。


この当時、ドイツではヒトラー率いるナチスが躍進し、オーストリアを併合したり、チェコスロバキアを占領したりしました。また、イタリアではムッソリーニ率いるファシスト党が躍進していました。日本やドイツ、イタリアのように、軍事力で領土を拡大していこうとする考え方を「ファシズム」と言います。

これらの3者は利害が一致し、1940年には「日独伊三国軍事同盟条約」を結び、同じ「枢軸国」として、戦争を進めていくこととなります。


日本の軍事化は勢いを留めることなく、1941年には陸軍の東条英機が現役のまま内閣をつくることとなります。東条内閣は、アメリカとの関係改善が見込めないと判断し、1941年12月8日にハワイの真珠湾を攻撃しました。これが「太平洋戦争」の開始です。


一方、ヨーロッパでは、ドイツがソ連と「独ソ不可侵条約」を結んで守りを固め、ポーランドへと侵攻しました。このドイツの動きに対して、イギリス・フランスが立ち上がり、戦火がヨーロッパへも広がる「第二次世界大戦」となります。

勢いを増していった日本・ドイツ・イタリアの「枢軸国」でしたが、相手のイギリス・フランス・アメリカ、それにソ連と中国が加わり、「連合国」と呼ばれます。

ます、イタリアが1943年に無条件で降伏しました。続いてドイツが1945年5月に降伏します。残るは日本だけとなりました。


日本は1942年6月に「ミッドウェー海戦」で敗退し、8月から始まった「ガダルカナル攻防戦」でも負けます。1944年には「サイパン島」を落とし、アメリカ軍の本土への空襲が可能となります。いよいよ日本国民も、戦争の犠牲者となります。

そのような日本は、神風と呼ばれる「特攻隊」といった作戦などで戦いますが、1945年には硫黄島、4月には沖縄戦が始まり6月に敗退します。

そして、1945年8月6日8時15分に広島、8月9日11時2分に長崎へと原爆が投下されます。

その後、8月14日に「ポツダム宣言」を受諾し、8月15日に終戦することとなります。


ここまでが、第二次世界大戦を経験した昭和の歴史になります。

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長崎の平和公園には「平和祈念像」があります。ここは、最近色が塗り替えらえたばかりです。また、「原爆資料館」では当時の悲惨な状況を目にすることができます。(写真は2020年8月9日に撮影)

これらの施設は、毎年多くの観光客や修学旅行生が訪れ、戦争について学び、平和を考える機会を与えています。


2021年1月22日には「核兵器禁止条約」が発行されます。日本は「オブザーバー参加」なども検討しています。今後、長崎は世界にどのようなメッセージを発信することができるのでしょうか。



これまで3回、歴史を中心に長崎について考えながら、この都市の果たす役割は大きいと感じています。これまで以上に、日本中や世界へとメッセージを発信できるポテンシャルを持っていると思います。

是非一度、長崎を訪れてほしいと思います。長い文章でしたが、最後まで読んでいただきありがとうございました。たくさんのコメントお待ちしております。

そして!!!

次回からは、新しい舞台で文章を書いていきたいと思います。このように、テーマを設定して、その土地や観光地の魅力を発信できればと思っています。

これからもよろしくお願いします!

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