見出し画像

考える 湧き上がる

潜在意識(無意識)は顕在意識の20000倍のパワーがあると言われている。頭で考えた思考が、心から湧き上がってきた感情に勝ちようがない。

課題を頭で考えている間は、なかなか良いアイデアが出ない。関連情報を大量インプットし、一旦忘れる。すると、突然お風呂で素晴らしいアイデアが浮かび上がる。誰もがある経験ではないか。この間、何もしていないように見えるが、インプットされた情報の結合分離や取捨選択を、無意識の力を借りてやっているのだ。なにせ、無意識のパワーは顕在意識の20000倍である。

創作においても、ウンウンと頭を使って捻り出した作品は、(技巧の問題はあるとして)感情の趣くまま書かれた作品には勝てない。理屈抜きに感動した出来事、心に残った風景、心揺さぶられた音楽や本、そんなところに創作の種は眠っていると思う。少なくとも私の場合はそう。例えば俳句では、自分の心が動いた過去の瞬間を詠んでいる。


重力の精魂尽きて軒氷柱のきつらら
岐阜県の高山

渡り鳥イデオロギーを越えるころ
千葉県の谷津干潟

鳳凰の五色ごしきで織りし秋の天
千葉県の内房

かんなぎの聖鳥まもる冬のもり
長野県の戸隠神社

ソロキャンプ小川のせせらぎ音の糸
長野県の上高地

春暁や鳥がをはむ松木立
静岡県の伊豆

ランダムの雲モザイクの稲田
千葉県の千枚田

残照の雪嶺せつれいを背に戦闘機
石川県の小松基地

霊験や樹氷ヶ原のフラクタル
奈良県の大台ヶ原

ラマダンの残夜いななく鳥の声
マレーシアのクアラルンプール

夕凪や雲を貫く航空機
バリ島のビーチ

楽園の供犠くぎや気骨の鶏一羽
バリ島の山村

不死鳥フェニックス舞う黄金の蓮の野辺
手塚治虫の火の鳥

各句に付したのは、原体験の紐付く場所


最後の不死鳥の句は間接体験、それ以外は直接体験に基づく。いわば、私家版奥の細道みたいなもの。体験に基づいてはいるものの、体験そのものではないことを付言する。《不死鳥舞う黄金の蓮の野辺》の描写は火の鳥にないし、《覡の聖鳥護る冬の杜》の聖鳥神話が戸隠神社にあるかどうかは知らない。つまり、火の鳥の読書体験や戸隠神社への旅行体験を核に、それ以外の複数の体験が結びつき、心の中で結晶化したのが「私」の句である。


さて、「吟行」という言葉がある。簡単に言えば俳句のネタ探し散策。確かに、俳句を詠むという目的を持つと、風景がそれまでと違って見えてくる。しかし、吟行での体験を即時に詠んだ十七音は、無意識のフィルターを通過していない。その場で心から湧き上がってきたものでない限り、左脳的になりがちなのではないか。一旦、無意識内で熟成貯蔵された過去の体験にアクセスすることが、より良い句を生むと思う。

熟成させる種を見つける吟行は多いにやった方がいいが、今詠む句は過去の思い出や体験から掘り出した方が真実、本質に迫るような気がしている。

例えば、今までに心が動いたことベスト10を書き出し、それを俳句に加工してみるというのはどうか。今は技巧が伴わないとしても、技術が向上していくたびにアップデートしていく。いつかとっておきの10句に仕上がると思う。


【参考記事】

学生時代に吹奏楽部のしろくまきりんさんは、クラシック音楽を基に創句。

うつスピさんは、俳句とは無関係の記事から創句することを提案。

歴史が趣味のてまりさんは、戦国時代で三句。


私は俳句に関してズブの素人。アポロ杯が初めてで、その後もnoteの企画に参加するくらい。生涯詠んだのはせいぜい30句程度だ。鑑賞も奥の細道を通読したくらいで、あとは教科書レベルの知識である。よって、創句についての考え方は素人の一私見である。











励みになります。 大抵は悪ふざけに使います。