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ともだち って なに?

 子どもらから投げかけられる素朴な疑問というのは、歳を重ねるにつれて特に意識しなくなっていってしまっているけど、聞かれると「う〜ん」と首を傾げてしまうものが多い。

「ともだち ってなに?」

 この問いも度々子どもらから聞かれるが、首をフクロウのようにぐるぐる回さずにはいられない問いだ。

 たぶん、斉藤の辞書の中にはこの言葉は存在しない。仕方なしに、 ともだち という語を使うことがあるが、その意味するところは、知り合い・同級生・同期... などを一括りにしただけの言葉で、大した意味はない。

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 はい。以上です。というのも、釈然としないのでもう少しこの問いについて検討してみることにする。普段特に意識されない何かに対して、問いを立てるというのは、大変興味深い。

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 ともだち(友達)を辞書で引くと次のような説明がある。 

互いに心を許し合って、対等に交わっている人。一緒に遊んだりしゃべったりする親しい人。友人。朋友 (ほうゆう) 。友。「友達になる」「遊び友達」「飲み友達」
—— デジタル大辞泉
一緒に勉強したり仕事をしたり遊んだりして、親しく交わる人。友人。友。朋友ほうゆう。 「 -になる」 「遊び-」 「女-」
—— 大辞林 第三版

 noteのある記事には、以下のようなことが書かれていた。

友だちの「定義」を考え出した時点で、答えはなく、友だちができなくなる。...... 中略 ...... 友だちを定義するようなものにしてしまったら、もう友だちはできない。新友、親友、信友、心友、神友、真友、深友、針友、辛友、というのが流行ったが、システマチックにランクづけしてしまった時点で、もうその相手は自分の友だちではなく自分で描いた世界の何らかのロールに過ぎなくなっている。
—— 友だちとは? 友だちの定義とは? 本当の友だちとは? 本当の友だち・・・・・・いる?

 また、あるネット上の記事には、以下のようなことが書かれていた。

1. 「理屈は通ってない」感覚的にわかり合える
2. 「例えば30分でも」時間をつくってくれる
3. 「素直になる」そんな必要が、そもそもない
4. 「当たり前じゃない」方法で慰めてくれる
—— 「本当の友達」を見分ける、たった4つのポイント

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 先達らの記述を読みながら、思考を巡らせた結果、ともだち について、次のような定義が斉藤の中には浮かび上がってきた。

一定の関係性を持っている相手と自分の間柄のうち、相手の役割が規定されていない間柄のこと。

【一定の関係性を持っている相手
 関係性について、一定の枠をつくるために添えた条件。一定の関係性というのは、見ず知らずの人や一見さんではなく、反復して関わりのある人ということ。例えば、同級生、同期、同僚、何かの仲間などなど、

【相手の役割が規定されていない】
 上で紹介したnoteの記事にあった「システマチックにランクづけしてしまった時点で、もうその相手は自分の友だちではなく自分で描いた世界の何らかのロールに過ぎなくなっている。」の部分に大きく影響を受けた文言。ただ、辞書にあった言葉も「〜だり〜だり」といくつかが例示されているが、辞書の説明書きの文字数制限という苦悩も考慮した上で、特定の役割が示されているということではないように読み取ることもできなくもない。
 こうなると、家族・親戚・恋人・先輩・後輩・先生・生徒 と友達というのが区別されうるのではないかなと思われる。

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 ともだち とは何かを考えたが、「一定の関係性を持っている相手と自分の間柄」のある一部分を切り出したものであり、ともだち が 多い(いる)とか少ない(いない)とかを議論するのは大した意味がない気がしているし、今回最後に定義してみた定義ですら、ツッコミどころは大いにある。

 実際問題として、3年半という短い教員生活だったけれど、その後も生徒ら(卒業生ら)との交流は一部続いていて、ボーリングやらスマブラを夜通ししたり、温泉旅行に行ったりしたこともある。高校時代の同級生らと何ら変わりない付き合いといえば付き合いだ。

 また、今活動しているKacotamで出会った人々ともそうだ。語弊を恐れずに言うのなら、子どもらの中にもある種 ともだち と言える関係に近づいているであろう人もいる。対人支援の現場では、「距離感!」と取りだたされることが多いが、問題なのは「距離感」自体ではなく、「距離感」がどういう状況にあるかを理解しているかどうかということだと斉藤は考えている。詳しくは別記事にて後々に。

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