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家庭菜園で資本主義に抵抗する

1ヶ月。
時間の大半を捧げて働いて、月末にやっと給料がもらえる。
だけど、その給料は生活の中で泡のように消えていく。
あんなに苦労して稼いだお金なのに、使うのは簡単である。
そうしてまたお金を稼ぐために、また1ヶ月働かなければいけない。
そんな日々が嫌になって、家庭菜園を始めようと思い立った。

貴重な休日。今まではあまり行く機会のなかったホームセンターに足を運ぶ。
プチトマトを作りたいとは思ったものの、何を買えばいいのかわからない。
店員さんに教えを請い、鉢植え、土、玉砂利、肥料、プチトマトの苗、支柱を買い物かごに入れていく。
「あれ?これ買ったほうが安いんじゃね?」という思考は、頭を振って外に締め出す。

驚いたのは、想像していたより大きな鉢植えが必要だったことだ。
500mlのペットボトルくらいの高さの鉢植えを買うつもりだったのだが、店員さんから勧められたのは2Lペットボトルの高さの鉢植えだった。
プチトマトなのに、こんなに大きな鉢植えを買わないといけないのか。
ベランダで優雅にやろうと思っていた家庭菜園が、一気に"農業"になった瞬間である。

家に戻り、さっそくベランダで作業に取りかかる。
鉢植えに土をしきつめ、中央に窪みを作り、プチトマトの苗を植える。
ふだん土なんて触らないので、その柔らかい手触りが新鮮に思えた。
そのときに、ふと坂口恭平が大工修行をしたときの文章を思い出した。

初めて体験したその現場で、僕は、植物が根こそぎ掘り出された大きな穴にコンクリートを流し込んでいく過程が、どうも生理的に受け付けられなかった。なんかこれ、普通に考えたらおかしいような気がするけど、なんでみんな平気な顔でやっているんだろう?
不安になってきて、親方に聞いた。
「えっ、これってなんかおかしくないっすか?親方!昔はただ石ころを置いてその上に家を建てていたわけでしょ?なんで、こんなに掘って、そこにコンクリをぐりぐり流し込むんすか?」
「そうだよなあ。やっぱおかしいよなあ」
親方は迷わず、そう返した。

『独立国家のつくりかた』

コンクリートでできた家に住み、コンクリートで覆われた道を歩く。
当たり前のようにやってきたことだけど、それらはとても資本主義的な行いだったのかもしれない。
そんな中で、ベランダという狭い世界だけれど、土に触れる機会ができたのはうれしいことのように感じた。

それから毎朝3ヶ月ほど、水やりをしたり、枝を切ったり、肥料をあげたり。
世話をするうちに愛着が湧いてくるし、朝の作業の時間は気持ちのいいもので、生活にもハリが出てくる。
次第に大きくなっていくミニトマトを今か今かと待ち望み、そうしてやっと収穫できそうな日がやってきた。
赤く色のついたミニトマト手でもぎ、水で洗って早速食べてみた。

よくテレビで見るような「みずみずしくて驚くほど甘い」というような味を期待していたのだが、なんだか青臭くて味も薄い。
正直、市販のミニトマトの方がよっぽどおいしかったのだが、それでもやはり自分が育てた野菜というだけで格別なものがあった。
それからしばらくはご飯どきにベランダに出て、ミニトマトを収穫し、おかずに一品添えるのが楽しみになった。

「百姓」という言葉は、もともとは「農業をする人」という意味ではなく、百のことをする人、つまり「なんでもする人」という意味だったらしい。
昔の人は畑を耕し、服を縫い、家を作り、となんでも自分でやっていた。
それが今ではお金を払えば、なんでも手に入れることができる。外注することができる。
でも私は、お金に頼って生活しているうちに、生きる力を失ってしまったのではないかと思わずにはいられない。
私は畑の作り方もわからないし、服の作り方もわからないし、家の建て方もわからない。
だからいつまでも漠然とした不安を胸にかかえ、その不安を埋めるようにしてお金を稼ぎ続けなければいけない。

私が作ったプチトマトは、そんな不安を埋めてくれるものだった。
お金で買ったものではなく、自分で作った食べ物。
本当に小さい一歩だが、生きる力を取り戻せたような気がした。

私は今、ぬか漬けに挑戦している。
無印良品に野菜を入れるだけでぬか漬けができる、ぬかのパックが売っていたのだ。
ぬかはかき混ぜることを怠らなければ、半永久的に使えるという。なんという頼もしさだろう。

私は今日もぬかをかきまぜ、きゅうりをぬかの中に埋める。
そして明日、ぬか漬けができるのを楽しみに待っている。
時間と手間はかかるが、それが私にとっては必要なことだと思うのだ。

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