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オタクは「自由」になれるのか

オタクは大体、自由というより自分勝手。

地下アイドルオタクのかべのおくです。


夏フェスが終わってめっきり秋になりましたが、地下アイドルにとってはここからが正念場なのかもしれません。どうしても夏が終わると現場の熱量は落ちてしまいますし、メンバーの卒業や体制変更も起こりやすいからです。

そんな僕は、先日「FES☆TIVE 南茉莉花卒業公演」に行ってきました。

南さんの卒業による寂しさはもちろんですが、全国ツアー、豊洲PITワンマン、タイでのワンマンなど、色んな思い出が詰まった5人体制の幕切れに、大きな喪失感を覚えました。


このように何かしらの節目を感じる時、「自分ってなんでオタクしてたんだっけ?」と問いかけざるを得ないことも出てくるでしょう。そこで、「自由」をもとにオタクってどんな存在なのか?を考えてみます。


正義に基づく「自由」の定義

そもそも自由とはなんなのでしょうか?「自由になりたい」「あの人は自由でいいなあ」とか言う割には、実はちゃんと分かってないことが多いかもしれませんね。自由を考えるには、ヒトに備わった「正義のプログラム」について考えなくてはいけません。


橘玲さんの記事を引用すれば、ヒトという生物には「自由」「平等」「共同体」の3種類の正義しか備わっていないとされています。


つまり、多くの人が「なんとなく大事だよね」と考えるのがこの3つの要素ということになります。そして、その濃淡によってその人の主義主張や意見が決まってくるのです。

そしてこの文脈で言えば、自由とは「世間体や肩書きに縛られることなく、自分の考えのおもむくままに行動できること」と解釈できそうです。


オタクは自由を損なう立場

この正義のシステムを導入すると、オタクは「自由を損なうことによって優位性を獲得している」と考えられます。特定のコンテンツに固執することによってその他を犠牲にせざるを得ないからです。

オタクが選択の自由を損なっている実例としては、複数のステージでライブが進行するサーキットフェスが典型例です。もしもちょっと気になるグループがいたとしたも、主現場と重なっていればそれは泣く泣く諦めなくてはいけません。主現場とはそういうものです。

そしてこれは、決してアイドルオタクに限ったことではありません。アニオタなら、面白くなくても色んなアニメを「履修」するでしょうし、これは見ておくべきという「必修科目」も存在すると思います。


このように、オタクである以上自由意志が存在しない場面は必ず出てきます。しかし、何かを犠牲にしているからこそ生まれる誇りや、長く通っているからこそ生まれる信頼関係のようなものがあることも事実です。

たとえば、僕の主現場であるFES☆TIVEの魅力は、誰でも楽しめる熱量の高いライブだと思っています。だからみんなが楽しんでいるライブを見た後には「このグループを推しててよかった!」という誇りを覚えます。

また、彼女達ならこれからも最高のライブを作ってくれるし、そこに自分もオタクとして貢献できると信じています。だから、交通費がかかっても、炎天下で延々と待たされても、チケ代が高くても、僕はFES☆TIVEのライブを見たいのです。


オタクであることを選択すること

このように、オタクの優位性を強く感じられているうちはいいかもしれません。しかしオタクである以上、主現場である以上、犠牲にする自由は確実にあります。ともすれば、オタクが義務化してしまい、推すことがつらさを伴ってしまうことがあるでしょう。

そんな時忘れてはいけないのは、そもそもオタクであることを選択するのは自由だということです。オタクは好きだからこそ、推しメンを応援したりライブに通うことを選択していると思います。共産主義国家や新興宗教二世のように、本人の意思なく思想を強制されている訳ではないでしょう。


先述した以外にも、オタクであることの恩恵は計り知れません。自分に好きなものがあって、それを応援することで自己肯定感も得られます。しかし信じるものに迷いが生じた時は、「オタクとは自由を損なう選択、しかしそれを選ぶ自由もある」を心に止めつつ、自分の意思で、自らの自由を差し出す必要があるのではないでしょうか。


おわりに

まとめます。

僕はまだ、オタクである必要がある。

以上です。

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