存在の肯定とうるさいおじさん
どうも。
Kabaddiです。
今日電車に乗っていたときのこと。
都内の移動にしては珍しく30分以上ずっと乗っていたのですが、そうすると周りはぐるぐると入れ替わっていきます。
だいたい体感で4組目くらいの流れの時に、そのおじさんは現れたのです。
「んん!!うん!!」
いや、ちがいます。
『そういう』おじさんではありません。
確かに都内には数多くの『そういう』おじさんが生息しますが彼はそうではなかったです。
そう信じたい。
とにかく、生活音というかおじさんから発される音が全てうるさいんです。
咳払い、咳、あくび、「よいしょ」などのかけ声、、
すべて。
一挙手一投足すべて。
うるさい。
というか
「うるさくしている」
んだと感じました。
なぜ?
その時。その悲しい理由がひとつ。
道に落ちた花びらに気付いて見上げたら、そこに梅の花がそっと咲いていたのを見つけたように、ごく自然に頭の中に浮かんできました。
あれは「自己の存在の肯定である」と。
あのおじさんはもしかしたら普段から誰とも話すこともなく、毎日を送っているのかもしれない。
レジで、改札で、パチンコ屋で、
「お客さん」
として扱われてはいるようだけれど、それは自分自身でなくとも成立する関係性で。
自分はここに存在しているのか?
自分自身はあるのか?
その疑問を打ち消すもの。
それが大きい咳払いであり大きい咳であり大きいあくびとして現れているのです。
音を出すことで、それが他人に届くことで、それこそが自分の存在の肯定になる。
彼は彼の中で苦しみと戦っているんです。
存在と不存在を区別することは厳密にはできません。
すべては自意識との戦いです。
ここにいる。ここにいる。
彼は音を出し続ける。
まじめにロマンティックに、排水溝の奥の暗闇のような目をしたおじさんの内面に迫ってみました。
ただ。
10分くらい一緒だったけれど普通に迷惑なおじさんでした。
今夜はこの辺で。
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