天才に酔う人たち

どうも。
Kabaddiです。

会話の中で「尊敬する人」や「影響を受けた人」というテーマって結構有用で、その人のバックグラウンドとアンテナの先の両方を知ることができます。

音楽という表現の世界にいるとそういったテーマで話をすることが少なからずあって、そんな時に「尊敬する人」「影響を受けた人」について話す人たちに見つけた、見つけてしまった点があります。

それは、「天才」という言葉の比重の大きさです。

多くの人が尊敬や畏怖の念を込めて「天才」という言葉を使います。
それは間違いなく褒め言葉ですし、自分自身に向けられた言葉であったならそれは単純に嬉しいと感じます。

しかし、尊敬や畏怖の念を込めた「天才」という言葉は比重が重すぎて、その言葉を発した当人までもを酔わせてしまいます。

「天才だから」や「ほんと天才」という言葉にはボキャブラリーが欠如していて、気持ちだけがバランス悪く乗っかってしまっていることで、周囲というよりむしろ発される当人に向かって降りかかってきます。

それは陶酔で、もっと言えば自己陶酔に近いものです。
借り物の「天才」という言葉に酔って、自分の中で起きている奇跡を見過ごしてしまっているのです。

どこを尊敬しているのか、どこがすごいと思うのか。

詳しく知っている必要もないし、年表を言える必要もない。他の人より遅くファンになったとかも全く関係ない。

ただ、どこをすごいと思って好きになって尊敬しているのかを自分の言葉にできないまま、どこかで誰かが言っていた、どこかで書かれていた「天才」という言葉で誤魔化してしまうと、その「すごいと思った部分」はその人の中に堆積せずに通過していってしまいます。

自分の言葉で言う。自分がどう感じたか。自分が何に心を揺さぶられるのか。自分の内部に起こる波紋の中心は何か。

こうやって人と関わる時間が強制的に減らされてしまう時期だからこそ、無理のない範囲で自分の内部に宇宙を拡張していくことが大事だと考えます。

言葉には、言語には大きな力があって、それはほとんどが発した人にそのまま跳ね返っていくもの。
正しくなくとも、論理的でなくとも、自分が何を感じているかを読み取っていくことが、これから大事になっていくのではないでしょうか。

今夜はこの辺で。





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