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カルト/Tele(ディスクレビュー)

重厚で長く響くようなフレーズのイントロからメロディに入ったとき、ステップを踏むようなリズムの転換のなかに、ハイハットでもスネアでもないパーカッションを感じた。それは日本語で多用されるタ行の存在だったのかもしれないと気づいたとき、その考えが頭から離れなくなった。
バンドミュージックの中でボーカルがパーカッション的役割を持つとすれば、日本語も捨てたもんじゃない。バンドミュージックの始まりであろう英語圏の言語は、ある程度厳格なルールに基づいて発音されることで、リズムを生み出し、共通見解の中でパターンとして広がって行く。日本語はどちらかといえばその発音の中の音価や譜割りみたいなものを認識せずに話されているがために、本曲のようにふとした瞬間に浮き上がってくる言語としてのリズムの良さを思いのほかふんだんに有している。
イントロから繋がるメロディーでビートを刻むタ行が際立って感じられたあとで、タ行を含まない「くだんね、くだんね、くだんないね全部」でメロディーが変化する。ビートはそこまで変化していないのに、時の流れがゆっくりになって、スローモーションの中で「くだんない」世界が見せつけられるように感じる。タ行が含まれない文節が、そこまで刻んできたリズムを放棄して、言葉としてビートを纏わずに脳に入ってきて、「くだんないね全部」に同意したくなる気持ちが心のどこかで発生するのを、わずかな焦りとともに冷静に観測する。
フレーズの始めやアクセントに置いてリズムを決めつけるようなタ行の使い方と、つなぎめとしてリズムを加速させて次の展開を予測させるような使い方によってリズムに揺らぎとメリハリが生まれ、そこに言葉の意味が合流してビートと心情が脳で融合して心象風景が形作られていく。
もちろん、ここまでの効果を考慮して「カルト」という曲が書かれたわけではないだろう。冷徹な分析的視点から見て、日本語のタ行が持つ力を信じたくなったということにすぎない。ただ。ただ。馬鹿げた理想論だろうとしても、確かにそこに音楽としての日本語の力を感じたし、その感動を信じたくなった。この考え方こそ「カルト」なのかもしれないけれど。
アウトロの「ただ、ただ、ただ」もタ行のシンコペーションによってリズムを失わずに、スピード感を保ったまま消えていく。誰もがせわしい日々を過ごす中で速度に置いていかれないように。濁流の中で夏の隅に添えた祈りのように。

カルト: cult)は、「崇拝」「礼拝」を意味するラテン語 cultusから派生した言葉である[1]フランス語: culte)では、宗教の宗旨別を意味し、学術用語としてはカリスマ的指導者を中心とする小規模で熱狂的な会員の集まりを指す[2]

wikipedia

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