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「システムへの幻想」と「凡庸な悪」の蔓延から脱出するために

言語の共通理解が塗り替えられる時代に

コロナ禍に突入した2020年、Beforeコロナ期に聞くことも、使用することも希少もしくは皆無であった言葉が蔓延し、言語の共通理解という前提が塗り替えられている訳であるが、そのうちの一つがニューノーマルという言語である。新常態と訳され、「かつては異常とされていたような事態がありふれた当然のものとなっていること」を意味しているが、元々は世界金融危機の金融上の状態を意味する表現であった。所謂、広い意味での「危機が潜在的・顕在的に存在し続けている状態」であり、単なる、「生活様式を変えて行きましょう」という表層的な意味合いとは異なる。先が見通し辛い状況だからこそ、現実を捉える認知の獲得が必要と考える。危機と異常事態に晒されている「現在」なのであれば、危機と異常事態に晒されて来た「過去」から学ぶものがあるはずだ。出来事の内容は、単純な比較対象すべきものではないが、システムの中における人間の特性が浮かび上がってくる。

ハンナアーレントが指摘する「悪の凡庸さ」

20世紀を代表する哲学者ハンナ・アーレント。彼女は、第二次世界大戦中にナチスの強制収容所から脱出し、アメリカへ亡命したドイツ系のユダヤ人である。

ナチスドイツによるホロコーストにおいて数百万人ものユダヤ人の収容所への移送に主導的な役割を担っていたアドルフ・アイヒマンが1960年、逃亡生活を送っていたアルゼンチンで拿捕された。 

アーレントは、イスラエルで行われた裁判の傍聴に駆けつけた。所謂、「アイヒマン裁判」と呼ばれる歴史的な裁判について『エルサレムのアイヒマン』という本にその模様をまとめている。

この裁判で彼女が見たアイヒマンは、悪の権化でも何でもなく所謂、「平凡な人間」であった。ただ純粋にナチス党で昇進するために、与えられた任務を全うしようとして、恐るべき犯罪を犯すに至ったという経緯が明かされていく。アーレントは、アイヒマンが予想されていたような極みつきの悪人たちではなく、また狂信的なナチス党の党員でもなく、ごく平凡なドイツ人であったことに強い衝撃を受けて、本のサブタイトルに「悪の凡庸さ」という表現を選んだのであった。

アイヒマンの犯した悪は、「恐るべき、言葉に言い表すことも、考えてみることもできぬほどの悪」でありながら、それが「凡庸なものであること」。この矛盾こそが、アイヒマンという人物を理解するために解かねばならなかったもっとも重要な思想的な課題だった。「悪の凡庸さ」とは、アイヒマンの犯した行為がその悪が、凡庸であると主張するものではない。この悪は巨悪であり、言葉に尽くしがたいもの、考えることもできぬほどにぞっとするものである。しかしこの悪を犯した人物はごく凡庸な人物だった。

アイヒマンの罪は、その「無思想性」に抗おうとせず、「考える」ことをやめ、ナチスに服従したことにある。考えるという営みを失った状態を、アーレントは「無思想性」と表現し、アイヒマンは完全な無思想性に陥っていたと指摘している。

自分の昇進におそろしく熱心だったことのほかに彼には何の動機もなかった。そうしてこの熱心さはそれ自体としては決して犯罪的なものではなかった。勿論彼は自分がその後釜になるために上役を暗殺することなどは決してしなかったろう。言い古された表現を使うなら、彼は自分が何をしているのか分かっていなかっただけなのだ。

アーレントはアイヒマンを、非道な事業に巻き込まれてしまった平凡な市民だと同情しているわけでも、彼は悪くないと言っているわけでもない。アイヒマンのような人物を、悪の権化、悪魔のような人間として、その人格を問題にするような形で責任を追及しようとすれば、論理的に破綻してしまう。アーレントが明らかにしたのは、「思考の停止」と「想像力の停止」それこそが、悪の凡庸さの本質であるということだ。私たちが考えることを放棄したとき、他者を想像することを放棄したとき、我々の誰もがアイヒマンのようになり得る。

正常性バイアスを打ち破れ

危機に直面したとき、自分にとって都合が悪い情報を無視したり、過小評価してしまう人間の特性を表す正常性バイアスという言葉がある。人間は予期せぬ出来事や危機に対して鈍感にできており、日常生活の延長として捉えてしまうことで「自分は大丈夫」と出来事を過小評価してしまい、災害における逃げ遅れの原因と考えられている。

2011年3月11日、東日本大震災は、地震災害に起因する津波、火災、原発事故によって東日本沿岸部を中心に甚大な被害をもたらした。

中でも、津波による甚大な被害を受けたのが、岩手県宮古市田老地区だ。「万里の長城」と称された海側の10メートルのギネス級の防潮堤は約500mにわたって一瞬で倒壊し、市街中心部に侵入した津波のため市街地は壊滅状態になった。死者・行方不明者は、同地区の人口4434人のうち200人近くに及んだ。長城は敵の侵入から住民を救うことが出来なかった。

他方で、高さ5メートル前後の堤防しかなかった釜石市は小中学生六百数十人ほぼ全員が津波の難を逃れた。釜石市の小中学校全14校では、防災危機管理アドバイザーで群馬大学大学院の片田敏孝教授が「津波てんでんこ」の大切さを学んでもらおうと2005年から特別教育を実施してきた。「津波てんでんこ」とは「津波のときはてんでんバラバラに逃げろ」の意味で、三陸沿岸の言い伝えである。片田教授は言い伝えを3つの要素に分解した。①想定にとらわれるな ②その場でできる最善を尽くせ ③率先避難者たれ だ。つまり、行政の事前予測を信じず、誰かを助けようと思わず、全速力で高台に逃げよということだ。

非常ベルが鳴っても皆が逃げないのに自分だけが逃げるとカッコ悪いので逃げないことが往々にして起こる。だから率先避難者として逃げることで空気を破って「逃げてもいいんだ」と思わせられる。中学校の生徒が率先して逃げ、それを見た小学校の児童が最初屋上に避難していたのが屋外に逃げ、彼らを追って付近の住民も逃げたことが、釜石の実例だ。

たとえギネス級の防潮堤という「完璧なシステム」を構築し危機に備えたとしても、そのシステムそのものが機能不全に陥った時に恐ろしい事態を招く。そもそも、「完璧なシステム」など幻想に過ぎず、システムに過剰依存しないと心得ておくことが必要だ。

それぞれが信じる「世界」の乱立

世の中には、様々な「世界」が溢れている。様々な分野のリーダー、指導者をはじめネット上で主張を繰り広げる人々、クレーム、ブーイング。皆それぞれ、信じる正義、正解を握りしめ、見たいものだけを見ていつの間にか先鋭化していく数々の言葉。そこには残念ながら、多くの場合開かれた対話はなく、それぞれが勝手に信じる「世界」が乱立しているかのようだ。

ドイツの哲学者マルクスガブリエルがそんな現代を「世界は存在しない」とテーゼを投げかけるがまさしくその言葉すら違和がない程の状況。

誰もが手のひらに収まるデジタルデバイスを手にし、容易に多様な意見や考え方に触れられるようで、それとは真逆な方向に加速している世界がある。自分が見たいものだけを求めてしまう原因はそれが「わかりやすい」ということだ。深く考えなくても、わかった気になって安心できる。「わかりやすさ」に慣れてしまうと、思考が鈍化し、複雑な現実を複雑なまま捉えることが出来なくなる。

システムに過度に幻想を抱き、悪の凡庸さに陥らない「わかりやすい」方法などはないが、マルクスガブリエルはこの様に説く。

相手はただの一人の人間でそこに深い違いはない。相手が異質であるという錯覚を「私はあなただったかもしれない」と反対側に立つことが重要。

アーレントが指摘する「思考の停止」と「想像力の停止」を反転させた様な言葉だ。ニューノーマルにこそ、「目新しい何か」ではなく、こういった普遍的価値観に立脚した認知の獲得が必要だ。

※以下、参考文献。


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