見出し画像

「ブルシットジョブ」からの決別と「社会的共通資本」

ブルシットジョブとは何なのか

社会に必要不可欠な仕事に従事する労働者という意味で、エッセンシャルワーカーという存在が注目される様になった。テレワークなどに代替することが出来ずに感染リスクに晒され、必要不可欠な仕事なのに低賃金であることが多い。一方で、止まってしまったとしてもすぐには影響を及ぼさない「なくても困らない」仕事の多くはテレワークなどに代替可能であり、尚且つ賃金は高い高給取りだ。ロンドンスクール・オブ・エコノミクス(LSE)の社会人類学教授のデヴィッド・グレーバーは、これらの仕事を「Bullshit Jobs(クソどうでもいい仕事、意味のない仕事)」と喝破する。

1930年に経済学者メイナード・ケインズは生産力の飛躍的な上昇によって20世紀末までに労働時間は週15時間(1日3時間)になるだろうと予測をした。しかし、現実には起きずに、無意味な仕事が次々と生み出された。皮肉なことに実際の労働時間は減るどころか、長くなり、山のように積み上がっていく、意味のない業務に翻弄されるという矛盾が起きている。

グレーバーはブルシットジョブをこう定義付ける。

「被雇用者本人でさえ、その存在を正当化しがたいほど、完璧に無意味で、不必要で、有害でもある雇用の形態である。とはいえ、本人はそうではないと取り繕わなければならないように感じている」

更にブルシットジョブに携わる多くの人たちの業務の実態の一例としてはこうだ。

「書類上では週に40~50時間働いていることになっていますが、実際に効率的に働いているのは15時間程度です。残りは自己啓発セミナーに出席したり、フェイスブックのプロフィールを更新したりと無駄に時間を過ごしています」

企業は、社会に直接的に貢献する仕事の多くを非正規化し、低賃金の労働で置き換えてきた。そして、本当に役に立つ仕事をしている人々が報われない社会になっているのだ。

「この社会は、本当に意味のある仕事をしている人が、怒りのはけ口になるような社会です。たとえば、看護師やゴミ収集者や機械工はいなくなってしまったらこまる職業です。その一方で、プライベートエクイティのCEOやロビイストやPRリサーチャー、テレマーケティング担当者、法律コンサルタントなどの職業は消えてしまっても、我々はたいして困らないでしょう。むしろ社会は良くなるかもしれません。しかし、意味のある仕事をしている人ほど賃金が低くなっています」

このような社会を招いたのは、新自由主義であり、そこから更に踏み込んだ市場原理主義という思想である。

市場原理主義に対する宇沢弘文氏の提言

かつてノーベル経済学賞に最も近かった日本人と称され、世界中の経済学者たちに大きな影響を与えた経済学者宇沢弘文氏は、ミルトン・フリードマンを指導者とする市場原理主義について、「市場で利益をあげるためならば法も制度も変えられる、要するに儲けるためならば何をしてもいい、というまともな人間の理解の度をはるかに超えた理論」だと痛烈に批判する。

市場原理主義は、あらゆるものをお金に換えようとします。人間のもっている大切なもの、あるいは社会的共通資本であっても、お金に換えるといくらになるか、ひたすら追求していく。非常に極端なかたちの経済学、いやむしろ似非経済学と呼ぶべきかもしれません。

日本の経済政策も少なからず市場原理主義の影響を受けてきた訳であるが、「社会的に必要不可欠」な領域までもがマーケットに晒されることで悲惨な状況が生み出される。市場原理主義への批判とオルタナティブ(代案)として宇沢氏が提唱したのは社会的共通資本という考え方だ。

社会的共通資本とは何か

社会的共通資本とは「誰にとっても等しく大事なもの」を「社会にとっての共通の財産」として大切にしようという考え方である。宇沢氏はこう定義する。

一つの国ないし特定の地域に住むすべての人々が、ゆたかな経済生活を営み、すぐれた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を持続的、安定的に維持することを可能にする様な社会的装置を意味する

社会的共通資本は大きく①自然環境(大気、水、森林、河川、湖沼、海洋、沿岸湿地帯、土壌など)②社会的インフラストラクチャー(道路、交通機関、上下水道、電力・ガスなど)③制度資本(教育、医療、金融、司法、行政など)の制度の三つに分けられ、それらに属するすべてのものは決して国家の統治機構の一部として官僚的に管理されたり、また利潤追求の対象として市場的な条件によって左右されてはならず、職業的専門家によってその知見や規範に従い管理・維持されなければならないとされている。

コロナ禍における社会的共通資本としての医療

新型コロナウイルス感染者を受け入れる病院の7割を占める公立・公的病院が経営難に陥っている。コロナ対応の最前線を担うが、人手不足などから、収益が見込める健康診断や救急外来を削って対応。病床稼働率は下がり、外来患者も減っていることから起きている危機である。

宇沢氏が、「社会的共通資本としての核心部分である医療に対しては、市場メカニズムを使うのではなく、もっと人間的な立場からその営みを守るために協力していかなくてはならない」と警鐘を鳴らしていたことが現実として起きているのだ。また、一人の患者が死に至るまでの医療費を、できるだけ安く抑えようという、近代経済学の効率性の考えを適用した日本の後期高齢者医療制度を厳しく批判する。医療を経済に合わせるのではなく、経済を医療に合わせるのが、社会的共通資本としての医療を考える上で重要な視点であるという。

ゆたかな社会に向けて

社会的に何が必要不可欠であるのかということが、より一層浮かび上がって来た訳であるが、グレーバーの言う所謂「ブルシットジョブ」に該当する職種やそういった事の一端を担う当事者であることもあろう。「ブルシットジョブ」であるからと言ってそれを完全にゼロリセットするべきかと言うと、それは二項対立から脱することはできない故、手放しで肯定は出来ない。「未来に残すに値する、社会にとって本質的に価値のあるものが何であるのか」を再考する契機であると捉えた時に、相対的に「ブルシットジョブ」の領域が低減されることを切に願う。

社会的共通資本の維持に従事するエッセンシャルワーカーは「職能集団としての士気、モラル、志という人間の心に関わるところ」で辛うじで持ちこたえているという現実。低賃金労働の構造に目を背け、都合のいい時だけスポットを当て、外野からただ賞賛を送るに止まっている現状に強い違和を感じざるを得ない。

宇沢氏は、ゆたかな社会をこのように定義する。

ゆたかな社会とは、すべての人々が、その先天的、後天的資質と能力とを十分に生かし、それぞれのもっている夢とアスピレーションが最大限に実現できるような仕事にたずさわり、その私的、社会的貢献に相応しい所得を得て、幸福で、安定的な家庭を営み、できるだけ多様な社会的接触をもち、文化的水準の高い一生をおくることができるような社会である。

近年、「記号消費」の如く表層的に「サステナブル」という言葉が横行しているが、人間と経済のあり方を追求し続けた経済学者の思い描いた世界は極めて普遍的であるということが認識された。「批評的なまなざしのもと主体的に振る舞う」という真の意味でのオルタナティブな生き方と社会への移行をそれぞれの立場から体現していきたい。

※参考文献




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?