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私たちは、なぜ物質主義からの脱却が必要なのか?

所有→共有への変遷

資本主義は人間の欲望に働きかけ、消費に駆り立てることで発展してきたということは言うまでもない。しかし、現在においては「共有型経済」という新しい経済体制に基づいた技術、サービス、エネルギーなどが身近に台頭しつつあり、その根底には「所有」→「共有」という概念の変遷が起きていると前回の記事で述べてきた。

今回は、資本主義影響下における価値観の変遷と、「共有」という概念の根底にフォーカスし、深めたい。引き続き、ジェレミー・リフキンの『限界費用ゼロ社会』の内容を中心に展開していく。

物質主義がもたらしたこと

20世紀の大半を通じて広告は、財産は所有者の人格の延長であるという見解を喧伝して、私たちの心の奥底に入り込み、何世代もの人々を次々に物質主義的文化に誘導して来た。製品を買ったりサービスを利用したりすれば、アイデンティティが高まり、より興味深く魅力的な人物となって、人々に受け容れられると謳う。

物欲に囚われた人々は、不満の高まりを実感していても、問題は富への執着にあるのではなく、むしろ富が不十分だからと信じて、物質的利益の追求を加速することの方がはるかに多い。あと少しだけ物質的な成功を収められれば、地位が向上して他者から揺るぎない称賛が得られ、さらなる消費行動に耽けることで望みどおり心が満たされるはずだという理屈でこれは心理学者が「快楽の踏み車」と称する現象だ。ところが実際には、彼らはこの快楽の幻想に足を踏み入れるたびに不満が増し、逃れようのない中毒の悪循環へと引きずり込まれてゆく。踏み車から降りて、幸せへと続く別の道を歩み始めない限りは。

『物質主義者の高い代償』の著者で心理学者のティム・カッサーは、物質主義的行動に関する長年の研究を通してこう述べている。

富と財産の追求を非常に重視する人が報告する精神的充足度は、そうした目的にあまり拘泥しない人と比べて低い。・・・・物質主義的な価値観が生活の中心になるにつれて、生活の質は低下する。

精神的充足度が低下しているにも関わらず、物質主義的価値観の先に幻想を抱くことしかできない構造があり、その幻想そのものが実体経済を加速させていくのだ。もはや人間が主体ではなく、モノが持ち主を所有していると言っても過言ではない逆転現象である。

満たされると幸福度は反転する

イギリスのエコノミスト、リチャード・レイヤードの富の増加と幸福感の変遷についての調査によれば、アメリカ人は1957年の二倍の実質収入がありながら、「非常に幸せ」だと感じる人の割合は、35%から30%へと下落している。これは他の主要先進国における調査でも同様の結果だという。また、人々の幸福度は、一人当たりの平均年収が約二万ドル(最低限の快適水準)に達するまでは上昇するが、その後は収入がさらに増加しても、幸福度への貢献度は減少する結果となることが判っている。

物質主義がこれほどまでの害をなすのは、私たち人類を駆り立てる「共感」という本質をそれが奪うからだ。進化生物学や神経科学の進展により明らかになってきたのだが、私たちが過去数百年にわたって教えられてきた人間像は、真の人間の本性とは異なる。

共感性という可能性①(脳科学的アプローチ)

では、真の人間の本性とは何か。脳科学のアプローチから追っていきたい。

1996年に、科学者たちは人間にミラーニューロンが存在することを発見した。俗に「共感ニューロン」と呼ばれるものだ。人間に近い霊長類やゾウも共感ニューロンを有するが、その他の種についてはまだわかっていない。ミラーニューロンとその他の神経回路が相まって、私たちは他者の感情を自分のものとして経験することができる。理性的にだけでなく、生理的にも、情動的にも。他者を自分自身として経験する、その喜びや恥ずかしさ、嫌悪感、苦しみ、恐れを感じる、この生理的能力こそ、私たちを社会的存在にしているという事実は、ようやく理解され始めたばかりだ。共感を覚える能力があればこそ、私たちはしっかりと統合された社会に組み込まれ、自分の延長として相手に接することができる。

研究の結果が物語るのは、利己的な人間像ではなく、本質的には利他的であり社会的である人間像だ。しかしながら、社会は複雑性を帯びており、様々な事象は個別具体的なコンテクストの中で生じる。共感という感覚が欠如された場面に遭遇した時は、何らかの過去の出来事や環境に起因していると捉えることが出来る。なのであれば、その共感性という特性が阻害されない環境や社会の形成に向けて進めることが出来るであろう。

共感性という可能性②(世代的、社会的アプローチ)

アメリカの経済学者、ジョセフ・E ・ステイグリッツは『欲望の資本主義 ルールが変わるとき』内のインタビューにおいてこう述べている。

大切なのは、物質主義に偏らないよう、バランスをとることだと思います。社会をうまく機能させるためには、おカネをモチベーションとしない人たちがいなければなりません。「カネは世界を動かす」「カネが資本主義を生むとも言われますが、実際に現代の資本主義をうまく機能させるには、おカネをモチベーションとしない人たちが必要なのです。資本主義の基盤はおカネを追求することです。しかし皮肉なことに、皆がおカネを追うと資本主義や市場経済は機能しません。新しいアイデアや考え方を模索する人、地球温暖化を懸念する人、資本家が不正を働かないか、社会に害を与えないか、銀行家が過去に行ったような悪事を働かないか監視する人たちが必要です。そういう人たちのほとんどは、おカネをモチベーションにはしていません。

おカネをモチベーションとしない人たちが、共感性を発揮し、社会を前に進めていくことが時代からも求められている。実際、景気の後退とグローバル経済の停滞により深刻な影響を受けて来たジェネレーションY(所謂ミレニアル世代と言われる1980年代序盤から1990年中盤までに生まれた世代)の価値観は、多数の研究結果から、それ以前の世代と比べて相対的に物質主義的価値観が薄まり、共感性が高まっているという傾向がある。それらが何を意味するか。実際、共有型経済の拡大と合致しているし、持続可能性や環境保全の取り組みの拡大にも反映されているのだ。

共感の拡大は地球環境保全につながるか?

リフキンは、著書の最後に以下の様に述べている。

若者たちが新たに見出した開放性は、性別や社会階級、人種、民族、性的嗜好などによって長い間人々を隔ててきた壁を壊しつつある。共感という感性は、グローバルなネットワークがあらゆる人々を結びつけるのと同じ速さで、水平に拡大中だ。共感が、真に民主的であるかどうかを判定する究極の試金石となった今、数十億もの人が、「他者」を「自分自身」として経験し始めつつある。そこまでは目につかないものの、何百万もの人、とりわけ若者たちは極地を彷徨うペンギンやホッキョクグマから、わずかに残された手つかずの原初の生態系に暮らす絶滅の危機に瀕した種に至るまで、人間の同胞たる動物たちにも、その共感の動因を拡大する方向に動き出している。

自己の幸福のみを追い求めた物質主義的な利己的行動は、結果として自己の幸福に繋がらなかった前時代的な価値観だ。共感を伴った行動の中に自己の幸福を見出し、その共感が地球環境にまで及ばない限り、人間の欲望は止まる事はないし、究極的には人類の生存可能性を低減させていくであろう。共有型経済が資本主義の代替となるかどうかは解らないし、不完全な要素は多分にあるであろう。ポスト資本主義を考える事は、未来に想いを馳せることだ。未来予測の様な専門家の憶測をアテにするのでも無く、どこかの誰かがシステムを提供してくれるのではと待ち望むのでは無く、私たち一人一人がそれぞれの立場において共感性を発揮することが未来を築いていくことになるであろう。

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