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限界費用ゼロ社会の可能性

資本主義の衰退から新しい経済社会へ

コロナ禍において、私たちが暮らすシステムそのものや地球環境に関しての疑問を抱く契機となったという事は、前回の投稿に記した通りだ。では実際、人類はどんな未来を創造していくのか。それを知る手掛かりとなるのが、ドイツのメルケル首相のアドバイザーを務めるヨーロッパを代表する文明批評家ジェレミー・リフキンが2015年に出版された著書『限界費用ゼロ社会』だ。

「資本主義の稼働ロジックは成功することによって失敗するように出来ている」という資本主義そのものの究極の矛盾を指摘しながら、新しい経済社会の台頭について極めて論理的かつ的確に言説を展開していく。

10世代以上にわたって人間の本性に関する説得力ある物語(ナラティブ)を提供し、商業や対人関係や政治といった面で日々の社会生活を支える包括的なフレームワークを維持してきた資本主義体制がすでに頂点を極め、徐々に衰退し始めている。

とはいえ私たちは、空気と同じように、資本主義は自らの存続にとって必要不可欠なものだという考え方に染まっており、新しい経済社会という言葉との間には未だ乖離があるのは事実だ。

資本主義にパラダイムシフトが迫られる理由

資本主義とはどの様なシステムなのかを確認していきたい。

資本主義は、人間生活のあらゆる面を経済の舞台に上げるためにある。その舞台では、人間生活は商品と化し、財として市場で交換される。人間の営みのうち、この転換を免れたものは皆無に近い。私たちが口にする食べ物、飲む水、作って使う製品、関与する社会的関係、生み出すアイディア、費やす時間、果ては、私たちの何者たるかの実に多くを決めるDNAさえも、すべてこの資本主義の大釜に放り込まれ、そこで再編され、値をつけられ、市場へ届けられる。今日、私たちの日常生活の事実上すべての面が何らかの形で商業的交換と結びついている。私たちは市場によって規定されているのだ。

日常生活の事実上すべての面が何らかの形で経済と連動しているというのは自覚的、無自覚的いずれにせよ納得せざるを得ないであろう。では、その資本主義にパラダイムシフトが迫られている理由とは何か。

①生産効率の極限化 ②地球環境への負荷の2点が挙げられる。 

資本主義体制の推進力は、生産性の向上であり、そのプロセスは熾烈を極める。競争者がみな我先に生産力の上がる技術を導入し、自社の生産コストを下げ、財やサービスの価格を下げて、買い手を惹きつけようとするからだ。この競争は次第に激しさを増してゆき、やがては最終目標に近づく。そこでは最高の効率が達成され生産性が頂点に達する。つまり「限界費用」という生産量を1ユニット増加させるのにかかる費用が限りなくゼロになるということだ。これは何を意味するか。その目標に行き着くと、財やサービスはほぼ無料になり、利益は枯渇し、市場における財産の交換は停止して、資本主義体制は最期を迎えることになる。

資本主義はその核心に矛盾を抱えているとリフキンは指摘する。成功することによって失敗するというのはまさしくこういった事なのだ。テクノロジーの発達により生産効率が上がれば上がる程、自分たちの利幅をすり減らすことに繋がっていくというのだ。

また、地球環境への影響という側面においても問われている。

膨大な量の炭素エネルギーを燃やして大気中に放出した二酸化炭素が累積し、気候変動が起こり地球の生物圏が大規模に破壊され、既存の経済モデルに疑問の声が上がっている。

経済活動を効率的に構成するための最善の仕組みとして長年に受け容れられてきた資本主義のパラダイムは以上の理由から転換を迫られている。

限界費用がほぼゼロになった世界でもたらされるもの

限界費用がほぼゼロの社会へ限りなく近づいていくなかで、かつては比類のなかったその力は次第に目減りし、希少性ではなく潤沢さを特徴とする時代においては、まったく新たな経済生活が構成されてゆくことは明白だ。

資本主義は、ドラスティックに変わる事はないが、相対的に力を弱めていく。新しい経済体制として共有型経済(シェアリングエコノミー)が台頭し、我々の経済生活のあり方を変え始めている。共有型経済においては、「所有」という概念が希薄化し、社会を駆動する原理は「共有」という概念になる。

限界費用ゼロ革命は、情報、再生可能エネルギー、3Dプリンティング、オンラインの高等教育を含む、その他のビジネス部門に影響を及ぼしている。

最近においては、新型コロナウイルスにより医療機器のパーツが不足したイタリアの病院において3D印刷で急場をしのいだというニュースがあった。制約された状況下において、少ない資源で、素早く人々に行き渡り救済に寄与することが出来たというのは技術革新がもたらした希望である。

また、「共有」という概念は既に日常に入り込んで来ており、音楽においてはSpotify等のサブスクリプションサービスは数千万曲のデータベースにアクセス出来る権利を提供している。Netflix等のサブスクリプション型コンテンツサービスも同様、いずれも音楽や映像を「所有」しているという感覚は無いのではないか。

時代が進み「Spotify」や「Netflix」などのストリーミングサービスがメインチャンネルとなった現在、(アナログレコード業界がリヴァイヴァル期に入って久しいことを除けば)音楽や映画をフィジカルにコレクションしている人の数は激減したといえる。しかし、これはなにもエンタメ業界に単発的に起きた事象ではないのかもしれない。このトレンドは、これからの消費社会全体が向かう「ビジネスモデルのネットフリックス化」と位置付けられる。(WIRED掲載記事より)

「所有」という概念が希薄化し、「共有」という概念が台頭することで、音楽や映画などのカルチャーにおいては相対的にフィジカル要素や現場主義的ダイナミズムの方の価値を求めたくなるものではある。尚且つ、アーティストに対しての利益性等を含めてすべてを肯定的に捉えるつもりも無い。あくまで共有型経済が顕在化された現象としての事実を例に挙げたに留まる。

「共有」という概念そのものの可能性がもたらす世界規模のポジティブな影響にフォーカスしていきたい。

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