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短編小説『タイプミス』

  カーテンの隙間から漏れる月明かりに照らされて、窓際に置いた小さなサボテンの鉢が枯れている。まるで一人で生きていくことを否定されているかのように思えて、少し笑う。

 実際そうだった、世話のかからない小さなサボテンすら満足に育ててやれない私が、上手に社会の波間を泳げるはずがなかった。うまく眠れなくなってからもう随分経つ。体調は悪くないけど、時々どうしようもなくなる。寂しいとか苦しいとかそういう感情は湧かない、ただ、そういう状況になっていると感知するだけだ。

 形式的に横になっていたベッドから這い出て、ノートPCを起動する。唯一、私と世界を繋ぐ小さな窓が光る。その光に照らされて、闇は一層深くなる。私はお気に入りからあるチャットルームのHPを開く。もうだめかもしれない。そう思った時だけログインすることにしている。

 <Yさんが入室しました>

 思った通り、Nはそこにいた。
 私はキーボードをたどたどしく叩く。

Y-まだ起きてたの、もう三時だよ

N-あ、ホントだ。気がつかなかったよ。

 チャットルームが流行ったのはもう何年も前だと思う。今はスマホが主流でみんなそっちでソーシャルなネットワークを築いている。私はそんなみんなについていけなかった。でも、きっと誰かとは繋がっていたかったのだろうと思う。もう廃れて利用者もいない、もしかしたら管理者もいないかもしれないチャットルームを見つけてこっそり呟いてみた。

-誰かいますか。私はここにいます。って。

 そんな私をみつけたのが”N”だった。

Y-他の人とも話してる?

N-いや、一人だよ。どうしたの?久しぶりだね。

Y-別になんでもないんだけどさ

N-寂しくなったか。

Y-まあそんなとこかな

N-最近、体の調子はどう?少しは慣れた?

Y-あんまりよくないよ、悪くなってる気がする

N-こんな時間にここに来ちゃうしね。悪くなってる気がするって事は確実に悪くなってるよ。

 Nはけして適当な励ましを言わなかった。私にはそれが心地よかった。会ったことも名前も性別すら知らないのに、Nには何でも話せるような気がする。Nの一人称は“僕”だけど、そんな事はここでは何の意味も持たない。

Y-タイプングの方はだいぶ上達したでしょ

N-そうだね、だいぶ速くなってきた。でもタイプミスしてるよ。タイプング。

Y-あ、ほんとだ、まだ人差し指に頼りすぎるんだよね

 現代のSNSとチャットは似て非なるものだった。匿名性を重視した時代のチャット空間には、文字とそれを生む心しかいない。

 お互いに、相手の姿、表情、声、性別、年齢、肩書き、全てが分からない。この状況が作り出す、本心とも偽りともつかない自分と相手、そして会話。ここに来ると感じるのは、私は常に“自分”という皮を纏って生きているということ。そしてその“自分”は、多くの場合で足枷にしかなっていない、ということだ。

N-病院には行ってないみたいだね。

Y-うん。まだ医療が私の病気を発見していないんだもの、行っても無意味だよ

 Nが少し黙った。何か考えているのか、それとも背中でも掻いているのだろうか。Nは文字だけの世界で“間”を絶妙に使う、沈黙も立派な会話の手段だと再認識する。

 それだけじゃない、Nのタイピングの速さは驚異的だ。PCと脳がつながっているんじゃないかと思う時がある。まるで会って会話をしているかのように自然で、不思議と表情や声色みたいなものが伝わるのだ。Nは「君の想像力が豊か過ぎるのさ」と言うけど、私はロマンチストとは程遠い。

N-もう、治らないかもね。

 Nが沈黙を破る。

Y-かもしれないね、だからってこれとうまく付き合って行こうとも今は思えないな

 私の病気には名前がない。診断を受ければ精神疾患とか不眠症とか名前をつけてもらえるだろうけど、そんな病気じゃない。もっと厄介な病魔が私の体に巣食っている、それだけは分かる。強いて言うなら「病名がない病気に罹っている」という不安が原因であり症状であり、病名だ。

 その病気のせいで私は人を信用できなくなった。それからもう一年以上経つ。その間、全くと言っていいほど人と会話をしていない。現代社会は便利だ、言葉を発しなくても生きていけるのだから。

N-実は僕も病気というかハンディを持っているんだ。

Y-え

N-僕は生まれつき音が聞こえないんだ。

 私は狼狽えた。チャットでそれが分かるはずもない。

N-Yには僕の声が聞こえていたみたいだね。

 確かに聞こえていた。文字を読む時、私は頭の中で音声化している。だから私にはNの声がちゃんと聞こえる。 幼稚園で平仮名を教わった時も、当然のように「あいうえお」と声に出して、音と一緒に覚えた。 それしか文字を覚える方法はないと思い込んでいた。「あ」は声に出した時に「あ」であるから「あ」なのだ。しかしNは違った、Nだけじゃない、もし音が聞こえなかったらどうやって文字を覚えよう。

 そんな疑問と、なんて言ったらいいか分からない混乱に手間取っていると、Nは雰囲気を察してか、特に変わりもなく平然と続けた。

N-文字に音があるなんて、僕には想像も出来ないよ、まるで五次元の世界だ。

N-だから形で覚えてたよ。「あ」は「あ」という形だから「あ」なのさ。みんなもそうやってるのかは知らないけどね。

 Nの頭の中で、私の声はしていないのだろう、私という“形”がフワフワと踊っているのだ。

N-だから僕には形や色のあるもの全てが言葉と同じなんだ、景色や、風が頬を撫ぜる時も、彼らの言葉が見える。

 素敵だ。不謹慎にもそう思ってしまった。Nは形ある全てのものと話が出来る、文字と同じように色や形からも“声”を聞くことが出来るんだ。

N-彼らは嘘をつかない、嘘をつくのはいつでも僕ら人間のほうだ。彼らの言葉はいつもシンプルで綺麗だよ、例えそれが悪口でもね。

 そういうとNは笑った。いや、「あはは」とタイピングした。

 人はいつもゴチャゴチャと言葉を混ぜる、繕う、嘘をつく。弱さをごまかして相手より優位に立とうとする。私がこの病気に罹ったのもそのせいだ。だから私は一切、人と話すことをやめてしまったんだ。Nはそのことを知っている。

N-でもね

 Nがまた沈黙をうまく使う。

N-人が言葉や文字を覚えたのは、嘘をつくためだけじゃないと思うんだ。

Y-じゃあなんのため?

N-相手の気持ちを知るためさ。

Y-きっと人は、相手の気持ちを知った上で嘘をつくのよ

N-もしそうだったとしても、人が人である証明は、相手の気持ちになって考えられる事じゃないかな、たとえ理解し合えないことに気がついてしまっても、人は支えあっている。その現実を見つめることは無駄ではないはずだよ。

Y-Nがそう思いたいだけよ、そんなのは綺麗事よ、人なんてこれっぽっちも信じられない

 そう書いて私はハッとした。嘘をついている自分に気が付いたからだ。

N-少しは病気がよくなってきたみたいだね。

 ギクリとした。

 Nには誰の声も聞こえない。だけどちゃんと聞こうとしている。私は誰の声も聞こうとしない、聞こえるのに閉ざしてしまったんだ。

 私の“形”がグニャリと変わるイメージがした。

Y-そんなことないゆ

N-またタイピングミスしてるよ。

Y-細かいな、それくらい見逃してよ

 Nの嫌味な声がはっきりと聞こえた。
 私はイメージの中でNの肩を小突いて、声を出して笑っていた。

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