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短編小説『メルカトルとクレメル』

 メルカトルには悩みがあった。
 親友のクレメルの事だ。

「いいかメルカトル。恐れて何も出来ないでいるは奴は少なからずいる、勇敢にするべきことを見つけた奴もたくさんいる、でも一番重要なのはそれをする順番だ。色々な事を分かっていても順番を間違えたら意味がないぞ」

 メルカトルはクレメルと話をする事が毎日の楽しみだった。クレメルはメルカトルが知らない事をなんだって知っていた。

「クレメルも順番を間違えた事があるの?」

「そりゃあるさ、取り返しのつかない失敗をいくつもしてきたよ。こんな姿になってしまったのもそのせいかもしれない。メルカトルには俺みたいになって欲しくないんだよ」

「クレメルはいい奴で、色々な事を僕に教えてくれるのに、皆は病気がうつるからあの男には近づくなと言うんだ」

「それはしょうがないさ、初めて俺を見る奴はどいつもギョッとする。悲鳴を上げて逃げ出した奴もいたよ」

 クレメルは病気なのだ。彼の全身は真っ黒に変色してしまっている。

 それは初め、小さな“シミ”だった。その“シミ”はあっという間に体中に広がって、クレメルは動けなくなってしまった。

「どうしてゲルハトに看てもらわないの?」

「俺は医者が嫌いなんだよ。それにこれは治らない、もうすぐ俺は死んでしまうだろう」

「クレメル、その病気の名前はなんていうの? 僕が調べて薬を持ってくるよ」

「こいつの名前か。このシミはな……」

 クレメルは病気の名前を“カナシミ”だと教えてくれた。メルカトルは歩き出した。“カナシミ”を消す薬を探してクレメルに渡すのだ。



 医者のゲルハトは病院にはいなかった。自宅を訪ねると丁度家から出るところだった。

「やあゲルハト。しばらく病院を閉めているそうじゃないか、病気にでもなったのかい」

「あぁ、メルカトルか。病院ならもう辞めたよ。それどころじゃないんだ」

「何があったんだい、ここに医者は君しかいないのに。僕は薬を探しているんだ」

 ゲルハトは急にキョロキョロと周りを見渡すと、声を潜めて言った。

「メルカトル、誰にも言うなよ。俺が不老不死について研究していたことは知っているな?」

「うん知っているよ。不老不死なんて無理だよ、僕らは必ず死ぬんだ」

 ゲルハトは医者の傍ら、なにやら怪しげな研究をしていたのだ。メルカトルはそれを知っていたが、難しくて全く意味が分からなかった。異常に不老不死に拘るゲルハトに、少し恐怖すら覚えていた。

「へへへ。それがさ、ずっと悩んでいてやっと分かったんだ。俺たちが死んでしまうのは、寿命を減らす悪魔の仕業なんだよ、俺はそいつを見つけたんだ」

「何を言ってるんだよ、悪魔なんていないよ」

「いやいる。新聞の配達員だ、アイツは実は悪魔なんだ。俺に新聞を届ける代わりに、俺の寿命を一日ずつ盗んでいってしまうのさ。だから俺はその悪魔をやっつけなきゃいけないんだ」

「ゲルハト、配達員は悪魔なんかじゃないよ」

「ふん、うまく騙されているだけだよ。メルカトルも気を付けた方がいいぞ、悪魔は俺たちと同じ姿をしているんだ。それじゃあ俺は準備があるからまたな」

「ちょっと待ってくれ、僕は薬が……」

 ゲルハトはメルカトルの呼びかけを聞かずにそそくさとどこかへ行ってしまった。

 彼は間違っている。新聞の配達員はやはり悪魔なんかじゃない。毎朝新聞を届けてくれるのだから、寿命が一日縮んでしまうのは当たり前じゃないか。

 クレメルは言っていた。

“頭のいい奴が考えすぎるとろくな事がない”



 メルカトルは歩き続けてとうとう岬まで来てしまった。

 岬の端っこに小さなお婆さんの姿が見える。カコ婆さんだ。カコ婆さんは自分の事をまだ少女だと思っているという噂だ。ああやってずっと岬で何かを待っているらしい。

「やあ、カコばあ、いや、カコさん。今日もいいお天気だね」

「メルカトルだね。あんたも変な噂を信じているようだね、あたしゃまだボケちゃいないよ」

「なんだそうだったんだ。ここから何か見えるのかい?」

「ああ、見えるさ、よく見える」

「僕にはずっと続いている海しか見えないよ」

「あんたにゃまだ見えんか」

 メルカトルは、カコ婆さんが待ち続けている何かとは、とてもとても大切な“誰か”なんじゃないかなと思った。

「カコさん、何か忘れられない事があるの?」

「誰にだってあるだろうよ、おまえにだってあるだろう」

「僕の友達が言っていたよ。過去に戻るのは無理だから、未来から戻ってきたと思えばいい、いつだって今が一番大事なんだって」

「昔には戻れない事くらいわかっているさ。だけど季節ってのはグルグル巡ってくるだろ? だからこうやって待っていれば、またあの頃が向こうからやってくるような気がしてねぇ」

 岬から海の彼方を眺めているカコ婆さんの目は白く濁っている。もしかしたら、沈んでいく夕陽や、昇る朝陽も見えていないのかもしれない。戻るはずのない過去を待ちすぎて、未来を見ることをやめてしまったかのようだ。

「カコさん、『カナシミ』っていう病気を知っているかい? 僕の友達がかかってしまって、薬を探しているんだ」

「そんな病気を聞いたこともあったかもしれないねぇ、今はもう忘れちまったよ」

「そっかぁ、忘れちゃったのならしょうがないなぁ」

 海風がやさしくメルカトルの頬を撫でていく。汽船がボーっと音を立てて沖を進んでいくのが見える。カモメ達がまるで小さな雲のようにその後を追う。

「メルカトルや、人の心は航海に似ている」

 お礼を言って歩き出そうとしていたメルカトルに、カコ婆さんは突然そう言った。

「大海原の真ん中で、舵を少しだけ動かしても、そこから見える景色は全く変わらないように思えるだろう。じゃがな、船が到着する場所は大きく変わっているんだよ。少しの変化は大きな一歩なのさ」

「うん、わかったよ」

「その友達の病気良くなるといいねぇ」

「ありがとう、僕もそう思っているよ。それじゃあまたね」

 メルカトルにはカコ婆さんが伝えたかったことがよく分からなかった。いつだって未来は目の前にあって、海は穏やかだ。

 クレメルは言っていた。

“大切なものは見えない事が多いけど、どうして見えないのかを考えたらだめだ。見えているものまで見えなくなってしまうからね”



 メルカトルは何日も歩き続けた。知っている道を歩きつくして、知らない道も歩きつくした。たくさんの人に話を聞いたけど、結局“カナシミ”について知っている人は見つけられなかった。

 メルカトルは途方に暮れてしまって、クレメルの家に戻る事にした。

 クレメルはもう見ていられないほど黒くやつれていた。ボロボロのカラスのようだ。

「クレメル、ごめんよ、薬は見つからなかったんだ」

「そうか。最初から期待なんかしていないさ」

 クレメルは苦しそうに笑った。

「大丈夫かい?」

「どうやらカナシミが俺の内臓まで食い破っているみたいだ、そろそろサヨナラだな」

「サヨナラなんていうなよ、やっぱりゲルハトに看てもらおう」

「お前知らないのか。あいつは人を殺して今は牢屋の中さ、頭が良い奴は狂うのも早いな」

「え、ゲルハトが人を、じゃあ本当に配達員を、僕は……」

 メルカトルは後悔した。あの時、どこかへ行こうとするゲルハトをもっとしっかり止めておけばこんな事にはならなかった。心が少しずつ暗く重くなっていく。その表情を察してクレメルが言う。

「メルカトル、見当違いのことで自分を責めてしまうのは損だよ。君が頑張ってくれたおかげで分かったこともある。メルカトルの顔を見ていて気が付いたんだよ、薬なんていらなかったんだ」

 その言葉にメルカトルは喜んだ。いままでの苦労が一気に吹き飛んだ気がした。

「じゃあ治るんだね。クレメルは何だって知っているんだ、病気なんかに負けるわけがないよ」

「うん。きっと『カナシミ』なんて笑っていればそのうち消えちまうんだ。俺は長い間笑っていなかっただけさ」

 クレメルはそう言うと大きく咳をした。口の中まで真っ黒だった。

「でももう遅いかもな、俺はまた順番を間違えたのかもしれない。もっと早くメルカトルに会いたかったよ……」

「遅くなんてないよ、僕がクレメルを笑わせるよ」

「そんな泣き顔でどうやって笑わせるんだい? いいかメルカトル。生きる事は結果じゃない、その過程だ。日向になったり影になったり、クルクル回って色々あるんだ。だから四角い地図ばかりを眺めていてもダメだよ、もともとこの星も心も丸いんだからさ」

「わかったよ、クレメル」

「よし、じゃあ泣くな。まずは笑顔を作ってみろよ、試作品でいいからさ」

 そう言うとクレメルはメルカトルの頭を撫でた。メルカトルは必死で我慢したけど、こらえ切れずに泣いてしまった。でもその涙の雫には、クレメルの笑顔が確かに写っていた。



 岬から見える今日の海もいつもと同じように穏やかだ。綿みたいな雲が太陽を隠して、メルカトルとカコ婆さんは影に包まれる。

「そうかい、友達は助からなかったのかい」

「うん」

「残念だったねぇ、あたしがもっとよく覚えていればねぇ」

 ゆっくりと雲が動いて、太陽がまた顔を出す。

「カコさん。僕にも見えたよ」

「そうかいそうかい、やっと見えたかい。いいもんだろう笑顔は」

「そうだね。ちょっと悲しいけどね」

 クレメルがいなくなって、メルカトルの身体には小さな“シミ”ができた。 皆はクレメルの病気がうつったんだと言ったけど、そうじゃない。

 メルカトルはちゃんと知っている。

 こいつは笑っていれば消えちまうんだ。

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