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空間は人を傷つける。『死んだけどあのね展』

『死んだけどあのね展』無事に終わりました。足を運んでくださった方、SNSで応援してるねと連絡をしてくださった方、本当にありがとうございました。

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来てくださった方々に、感謝だけではなく、自分がこの展示を通じて学べたことや感じたこともお伝えしたいと思ったのでnoteにまとめることにしました。

沢山の方々との対話を通じて、いろいろな発見ができたので、いくつか分けて投稿します。

4月3日10時 2日目の展示での最初の鑑賞者

プロジェクトを一緒に動かしているメンバーの友達が展示に足を運んでくれた。

彼は、私がこの展示で伝えたいことを頷きながら真剣に聞いてくれた。

そして、様々な方の死別体験を刻み込んでいる作品を手にとった。

その瞬間、歯を食いしばり、涙を1,2滴流しそうなところで、

「ちょうど犬を、、」

と言いかけた。

私はその瞬間、「申し訳ない。本当にごめんなさい。こんな空間で。」

と本当に反省したし、空間は人を傷つけることもあることを学んだ。

スクランブルスクエアの7階での展示だったので、割とパブリックな空間だった。

2日目の展示中、何度も何度も彼の顔を思い出し、自分のことを責めた。

展示の受付スタッフの方に異常に疲れているねと言われたが、疲れているのではなく、今までにないくらいに考えさせられる経験だった。

自分が死別の悲しみを受容している身として死別の悲しみを伝えることは、死別の悲しみを否認・怒り・取引・抑うつしている人にとっては、傷つける行為になるかもしれないという意識は展示前から持っていた。


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彼の姿から、自分がどんな視点から死について話すのかということよりも、どんな状況で話すのかという視点も、今後考えていかなければならないと感じた。

展示2日目は何度も何度も彼の顔を思い出し、自分のことを責めた。本当にごめんなさい。こんな空間でこんな展示をしてしまって。

彼が、死別の悲しみと向き合おうと心のページを開いた瞬間に、そっと後ろから寄り添えなかったことは、本当に悔しかったし、本当に申し訳ないと思った。

私自身は常に、死別の悲しみを持つ人を一方的に救おうなんてことは思わないようにしているし、救うことなんてできないと思っている。でも、目の前の人すら救えない自分の無力さは一生忘れないものになった。

何をしたら良いのかわからなかったし、なんて声をかければいいのかわからなかった。

彼とは、幸いなことに、メンバーの友達であったため、展示会後も話す機会があった。

もしも、誰も知らない人で、せっかく展示で心を開きかけたのに、空間のせいで心のページを閉じてしまったら、私はその人にどう謝ればいいのか。

きっと寄り添うことに正解なんてないんだろうけど、ごめんなさい。

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