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直感で福島を選ぶ私のセンスはちょっと光すぎていたようでした。


 福島・浜通りでのインターンを終えて3週間ほど。北海道は涼しくて最高だし、実家のご飯は美味しくて最高だけど、福島のことを思い出したり考えたりする時間はむしろ増えた気がします。あの4ヶ月の間に知ったこと、考えたことを言葉にまとめられるように消化するには、思っていたより時間を要しました。


4月中旬、請戸川リバーラインの桜。




 東日本大震災が起こった時、私は小学1年生でした。ツナミもゲンパツも、その時に初めて知った言葉でしたが、子供ながらに「日本は大変なことになっているんだ」と理解していましたし、ヘリコプターによる注水や3号機爆発のニュースを家族皆で見ていたことをよく覚えています。

 そういう意味で、私にとって“福島”の一番最初の入り口は原発事故だったし、節々の報道で実感する代償の大きさに思わず下を向いてしまうあの感じでした。




 いざ実際にこの地域に来て、その心のざわめきはおよそ正確だったなと思いました。廃炉や中間貯蔵施設の実状、新しいまちづくりへの地域の人達の複雑な感情を見聞きするごとに、全ての人のハッピーエンドは全く見通せないのだと気づきました。廃炉に関わっては、エンドすら見通せない。


 7月下旬、経産省の木野正登さんの案内で5号機の格納容器のペデスタルの内側、圧力容器の真下を見学した時の写真。2号機にはこの内側にも燃料デブリが確認されているものの、技術的にもまだまだ取り出しには追いついていない。


(参考)

 2号機の燃料デブリの概観図。事故時になぜ2号機の格納容器が爆発しなかったのかも内部調査が進まないと確定しない。(熱によるボルト等の緩みから減圧されたのが有力らしいが…)結局ここが判然としないと核は人間がコントロールできるものなのかという問いに答えられない気がする。


7月下旬、木村紀夫さんの案内で入った中間貯蔵施設内部、熊町小学校周辺での放射能の数値。雨樋の近くや草むらは10μSv/h以上と、まだ相当に高い。(追加被ばく線量の目安は0.23μSv/h)


年内に取り壊される大熊町の大熊町立図書館。事情を分かりつつも、うーんと。



 渦中の現場にいる中で、常々に自分の内なる加害性を突きつけられました。99%の人の幸せを追加するために1%の人に犠牲を強いること、そしてそれを何となしに「しょうがないじゃん、補助金もらってるんだからいいじゃん」と言うことがどれだけ残酷であるか。無知・無関心がどれだけ更なる苦しみを生んでいるのか。



 ここには人の暮らしがある。美しい自然があり、原発が建つ何百年も前から続く伝統がある。原発事故がそれらを壊していい理由になぞ絶対にならないと、福島復興の本当の意義を初めて認識できるようになった気がします。日本で生まれ育ち、電気を使って生きている人間として、これからも自分の立場からできることに尽力したいとともに、沖縄基地問題や環境問題、格差問題などの同様の構造をもつ社会課題に対しても目を背けず相対していきたいと思います。








 他方で、私が震災から12年目の福島に来たことは、別の気づきを与えてくれました。

7月下旬、小高の村上海岸での海SUP。
SUPはほぼスキー。楽しい。

 人はもう50年は住めないと言われたこの地域で、私は暮らしていました。暮らすことが、全然できていました。平日は農作業をしに行き、休日には常磐線でちょっと遠くまで出かける。スーパーで半額のシールがついたお惣菜を一生懸命選んだり、友人たちとぎゃーぎゃー笑いながらパーティーをしたり、知り合いが作るカレーに舌鼓をうったり、そんなどうってことないけど愉快な日常がありました。

(表現からつながる家『粒粒-つぶつぶ』Facebookより)
粒粒の一周年イベント、幸せを具現化したらこんな感じだよねって日でした。


5月下旬、小高つながる市のスタッフの皆さん達との写真。一緒にパーティしてた人達。


星降る農園で採れた野菜達!丸ズッキーニ!



 
 もし、「そのまま」だったら。誰も何もしていなかったなら。全ては起こり得なかったことです。いやー福島ほんと楽しかったわ4ヶ月で帰っちゃうの寂しいわあ泣と思う18歳が2022年に存在することは、2011年にはあり得なかった。

 ここには、除染作業をした作業員の人がいて、除染や帰還を進めようとした行政や政治家の人がいて、町に帰ってくることをずっと待った人がいて、町を盛り上げようと励んだ人がいて、新しくやってきた人がいた。だから、この今がある。新しい日常がある。




 言葉なんか遥々超えちゃって、伝わってくるものがありました。私たち人間には、描きようもなかった未来を描くパワーがある。あり得なかったものをあり得させる、未来を変えるエネルギーがある。人間って凄い。素直にその思いが浮かびました。



 そして、ここにはまだまだ先があります。

 再エネの発展がエネルギーの自給自足を可能にし、環境に優しいモビリティが老若男女の足になる。子供たちはローカルからグローバルに容易に繋がることができて、新しい時代の新しい芽を地域の大人皆が応援する。
 福島の食は世界中の人から大人気になって、この地域は自分のライフスタイルと未来を原発事故を通して考える創造の場所になる。違いを違いと尊重し合いながら人々が調和しつつ、大切な伝統を繋いでいく。そのストーリーはやがて映画になって、自分達が出ている映画を照れたり突っ込んだりして地元のお酒を飲みながら観る。みんなで笑いながら観る。そんな未来は、きっと、いや絶対につくることができます。この地域と、この地域の人達でなら。

 




 北海道に帰ってきて少し経った頃、母が私に言いました。あなたが本当にやりたいことが福島にあるんでしょう、それがまだ全然できていないから悔しいんでしょう、と。母、流石に流石だと思いました。そうです、私は自分が未熟で、まだ何もできていないことが悔しくてもどかしくてたまらなかったです。


 インターン先の上司であった高橋大就さんから大きく影響を受けましたが、やっぱり批評家になったってどうにもならない。一生懸命手を動かした人が結局一番偉いです。

 ただそれでも、何に対してどう手を動かせば自分の目標を達成できるかを知るには勉強が必要だから、学生の本分としてこれから大学でひたすらに学んで生きていたいと思います。
 やりたいこと知りたいこと、沢山あります。最近は専ら、地方自治とエネルギー開発、エネルギー保障の関心が高まっています。幅広い学問を追うことができるリベラルアーツの恩恵を受けながら、学んで、吸収して、日本の明るい将来を切り開いていけるプレイヤーになって帰ってきたいと思います。



 福島・浜通りに来て、本当に本当に素敵な皆さんの元でギャップタームを過ごせて本当に良かったです。お土産と土産話を携えてまた福島に行くのが、今から楽しみです!改めて、皆さま本当にありがとうございました。

 


小高’s 夕焼け!すんばらしい。

 


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