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五條瑛『Seoul Cat’s-eye 半島の猫目石』(鉱物シリーズ/ソウル・キャッツアイ)感想

 在日米軍のHUMINT担当情報分析官である葉山隆を主人公にした諜報小説、通称「鉱物シリーズ」。鉱物の名が冠された長編四部作の第3作目が、2020年8月、小学館文庫より五條瑛『パーフェクト・クオーツ 北の水晶』として発売された。(長編四部作とは『プラチナ・ビーズ』、『スリー・アゲーツ』、『パーフェクト・クオーツ』、『ソウル・キャッツアイ』の四作。)本作はオンデマンド、キンドルで2018年に発売された作品の、ファン待望の商業出版版である。本作を出版してくださった小学館文庫の英断に、一ファンとして深く感謝している。
 ここに至るまでの簡単な経緯は文庫「あとがき」に記されており、近年の出版状況をご存知でなかった方は驚かれたことだろう。紙の本での初動売り上げという、極めて短期間の売り上げで次作が刊行されるか否かがほぼ決まってしまう現在の出版業界の状況の中で、次作が刊行されるのはかなり厳しい状況にある。
 東アジアを舞台にした諜報小説として圧巻の面白さを持つ本シリーズ(ジョン・ル・カレをお好きな方はぜひ!)が、このまま棺桶に入れて墓場に埋められたままであるのは大変残念である。防衛庁の情報・調査専門職という経験を持つ著者による、どこまでフィクションなのか真剣に考えてしまうほど現実とリンクするこのシリーズの半島編は、未刊行である『碧き鮫は野に放たれ』と『Seoul Cat’s-eye 半島の猫目石』で完結するが、筆者はありがたいことにこの2作を拝読する機会を得た。そのうち『Seoul Cat’s-eye 半島の猫目石』の感想を以前Note上で公開したことがある。一度は削除したが、『パーフェクト・クオーツ 北の水晶』が発売されたこともあり、シリーズ続刊が商業出版されることを願って、加筆修正して再度掲載しようと思う。

(ネタバレばかりなため、ご注意ください。)


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 本作の縦糸は、亡命した代理大使の娘を助けるため奔走する夫婦の行動と米朝直接交渉を持ち掛けた政治フィクサー「猫目石」の正体を追う米軍の極秘捜査、横糸は葉山とエディの関係である。この縦横の糸の上に、これまでのシリーズ登場人物のそれぞれ新しい道を歩む決断が織り込まれる。

 縦糸に関しては、ここ2年の朝鮮半島、アメリカの政治ニュースを抑えていると、大変面白い。あの事件がそう来ますか、と現実をフィクションに料理する作家五條瑛の手腕を満喫できてゾクゾクする。
 本作のキーパーソン・アントニオは脱北者であり、韓国国籍を有するが、脱北者を差別する同胞であるはずの韓国社会になじめず、イタリアに渡り北朝鮮大使館で料理人として働いてきた。しかしある日、主人である代理大使夫妻が亡命したことで、残された10代の娘が北朝鮮へ無理やり送還されてしまう。何とかその娘が拷問や処刑を免れる道を探し、脱北しながらも北に顔が利く有力者になっていると噂される友人の消息を探すため韓国に向かう。一方アントニオの妻であるスーリンは、過去に自分を騙して捨てた“火蛇”を探し出し、夫の身を守るために助力を頼む。引退を考えていた“火蛇”はスーリンのしたたかさに心動かされ、葉山へと託すことになる。
 一方ワシントンでは、大統領が現場の意見を無視し韓国抜きで米朝直接交渉を行おうとしていた。大統領に入れ知恵した人物を突き止めるため、ヴァンディ補佐官はハリス博士とエディに極秘での調査を依頼する。海軍出身のヴァンディ補佐官は自分の後釜としてエディを望んでおり、横田では近々エディがワシントンに栄転すると噂されていた。このような中スーリンが在日米軍に保護されることで、二つの出来事がリンクしていく。また、鹿嶋沖で摘発された密貿易が米軍と関係しているという疑惑が持ち上がり、坂下が調査に出かける。この事件も思わぬところでつながっていくことになる。

 縦糸に絡みながらこの作品で描かれるのは、祖国である。
 アントニオは友人を探すため韓国に行くが、同胞の国でも、国籍を有していても彼にとっては異国であった。北こそが彼の祖国であり、体制が変われば戻りたい美しい故郷であった。美しい思い出を共有する友人は、同じ脱北の苦しみを味わい変わらぬ友情を抱いていた。しかし皮肉にもその友情の証こそが、今なお祖国のために働く友人とアントニオとの友情を裂くという悲劇につながる。だがアントニオには、幸福なことにすべてを理解して受け入れてくれるスーリンという妻がいた。それぞれ出身が異なる二人だが、強い夫婦の絆で幸せに生きてほしい。
 もう一つ描かれるのが、洪敏成の選択である。前作『碧き鮫は野に放たれ』で国情院の方針に反して米軍の坂下に協力したことで洪は閑職に左遷されていたが、ついに国情院をやめる決断を下す。金大中の掲げた統一旗に心を動かされ祖国のために働いてきた彼の眼には、北に傾斜した今の政権の掲げる統一旗は薄汚れて見えた。韓国人としての血に重きを置いてきた洪であったが、祖国である韓国での生活より海外での生活が長くなるにつれ今の韓国を外国のように感じるようになり、祖国を持たない人間として生きる道を選ぶ。彼のそばには、韓日どちらにも思い入れがないから、洪のいる地獄を祖国として選ぶというパクの姿があった。情勢に応じて猫の目のようにくるくる変わる半島の政治を、今後洪はどう見届けるのであろう。奔放な洪とそれに付き合うパクの今後の活躍に期待したい。
(なお余談であるが、国家情報院は「対外安保情報院」への名称変更と共産主義活動への捜査権が警察へ移管されることが決まっている。この古巣の有様を洪はどう見ているのだろうかと、想像が膨らむ)

 横糸で描かれるのは、このシリーズを通して独特の緊張感にあった葉山とエディの関係の変化である。その緊張感の根っこには、葉山がまだ10代半ばであったころに彼を残して突然自殺した父・リオンの存在がある。DIAの情報分析官であったリオンの死の真相を教えてくれない、いつまでも一人前に扱ってくれない上官のエディに対する反発が、「淀んだドブ川」で見通せないと言われる両者の緊張関係につながっていたように思う。  
 しかし、本作は今まで葉山視点で語られてきた、部下をおもちゃとしか思っていない鼻持ちならないWASPの上司「エディ」ではなく、彼の素であるウォーレンとしての姿がほとんどである。「エディ」は軍での通称で、ウォーレンが本名であるが(本作の最後でついにフルネームが明らかになる)、特に葉山の前では上司の「エディ」として振る舞うことで彼を教育してきた。リオンと若きウォーレンの物語である『Oriental Mermaid』などを既読の読者にはウォーレンがどのような人物なのかご存知の通りであるが、これまでの葉山視点の意地悪な「エディ」しか知らない読者にとっては、かなりの衝撃であろう。ウォーレンはリオンから葉山を託され、エリートコースが約束されているにも関わらず日本に赴任し、葉山をリクルートして情報分析官として一から育てた。着実に才能を開花させる葉山に対し、リオンの死についてどのように伝えるか内心苦悩するウォーレンの視点は新鮮である。
 そして本作ではエディの異動が噂され、一緒にする最後の仕事になると思っている葉山はだいぶ素直である。「異動するのは寂しい、しないで欲しい」という本心を隠していること以外は。今までの態度は何だった?と思う程、エディの出世のために役に立ちたいと思い行動していく。明らかに葉山の存在のために今までワシントンへの異動に乗り気ではなかったエディは、葉山の「ホワイトハウスに入ってほしい」という言葉を受け入れる。お互いのことを思いながら素直にならない二人の数々のすれ違いに、はらはらしながら読み進めることになる。
 葉山は「猫目石」の正体をつかみ、エディはヴァンディ補佐官に報告と意向を伝えに行き、ついに横田を離任することになる。離任パーティーでエディに挨拶せずに帰宅した葉山が処理できない感情にぼんやりしていると、深夜にも関わらずエディが訪ねてくる。「エディ」ではなくウォーレンとしてやってきた彼は、消えない「約束の証」を葉山に残していくのであった。
 翌日帰国するエディを見送らずにいつも通り仕事をしていた葉山は、仲上との昼食の帰路、エディが仲上に託していた手紙を受け取る。そこには「エディ」ではなくウォーレンとして、彼が知っているリオンの死に関わる情報と推測がつづられていた。リオンが世界中の誰よりも葉山を愛し幸せを願っていたこと、そして自分も同じであることを告げる手紙に涙する葉山は、自分が同じように彼らを愛していたことに気づくのであった。突然のリオンの自殺から、ずっと父に愛されていないと思って生きてきた葉山がやっと救われることができた、まさに半島編の締めくくりにふさわしい結末である。
 ただ、まだリオンの死の真相や、ほとんど痕跡が消されている母・アレクサンドラ・イサレスクについての謎は残る。アレクサンドラは「美貌の愛国者」「白雪姫」と呼ばれた、数々の伝説で彩られたKGB諜報員であった。残された謎が続く大陸編で出て来ることだろう。

 そして実の父だけではなく、養親である田所との関係にも胸打たれずにはいられない。開示されたアレクサンドラに関する公文書には、田所が情報漏洩者をアレクサンドラに紹介したことが書かれていた。田所がアレクサンドラと関係があったことから疑心暗鬼になりよく眠れない日々が続いた葉山であったが、それを察したエディは、田所に保全上問題ないとの結論は現在も変わっていないと告げる。その言葉に安堵した葉山は、ある日、田所の自宅を訪ねる。もう二度と自分のところには来てくれないと思っていた、と言う田所に、こみ上げる思いを抑えながら、ここは僕の実家みたいな家じゃないですか、と葉山は返す。この日、はじめて田所はアレクサンドラが初恋の相手であり、葉山を引き取ったのは、いつか彼女が迎えに来るのではないかという未練がましい下心があったからだと詫びる。葉山は田所に感謝しており、いままでもこれからも田所は育ての親であると告げるのであった。
 アレクサンドラを用いて葉山に揺さぶりをかけるのがサーシャである。「猫目石」の情報を持っているはずだと“火蛇”に紹介され、彼が滞在するホテルのスイートルームまで訪ねた葉山は、「猫目石」の情報の提供の見返りに願いを聞く番だと、ある絵をサーシャから見せられる。それはアレクサンドラの肖像画であった(肖像画については『碧き鮫』で描かれている)。初めて見る母の顔に衝撃を受けた葉山に、サーシャは「こちら側」に来るように誘う。しかし、葉山のGPSを監視していたJDの連絡を受けた坂下がホテルの部屋に突入し、一瞬誘惑に落ちかけていた葉山を連れ戻す。サーシャはこの絵が見たくなったらいつでも来い、と言い残すのであった。
 JDも本作で大きな決断をした一人である。ついに帰国をすることが決定したJDは、頼れる兄貴分として坂下に、自信がないならエディに子守り役を下ろしてもらえ、葉山を守るという仕事は軍人の本分そのもので、大いに気に入って満喫していることを素直に認めろと言う。それに何も言い返せない坂下であった。(なお、葉山が米軍によって守られている理由の一端も本作で明らかになる。この理由も後の大陸編と関係してくるのだろう)
 そして新たな選択をしたのは“火蛇”と仲上である。“火蛇”は「猫目石」を知る人物を紹介する見返りに、葉山に仲上に会わせるよう求める。エディのためどうしても「猫目石」の情報が欲しい葉山は、仲上に率直に頼み、仲上は思いの他あっさりと受け入れる。過去に“火蛇”が仲上の妻と肉体関係を持ち、仲上の掴んでいる情報を盗んだことで決別した二人だが、仲上は年を取ったことで、過去を引きずるより “火蛇”から何を得られるか賭けてみたいという気持ちになったという。シンガポールまで訪ねた仲上に対し“火蛇”は、引退を考えていたが仲上に会ったとたん気持ちが変わったと言い、同じ女の身体を通して互いの存在を確かめ合った、共通の秘密を持つ分かり合える仲である二人で、もう一度、今度こそ最後の夢を一緒に見ないかと提案する。二人合わせてやっと一人前の中国人である二人で、残りの人生をかけて中国やアメリカに一矢報いる気はないかという“火蛇”に、自分がずっと夢見てきたのは彼のことだったと、仲上はついに認めることになるのだった。二度とお前の夢は見ない、と決別した仲上が、また“火蛇”と行く道を選んだことが、今後の大陸編でどう展開していくのか楽しみである。

 このように、それぞれの新たな展開を迎え本作は終わるが、次の大陸編に向けても大きな布石が最後に準備されている。それは中国をにらんで東アジア全般の情報組織を統合した環太平洋情報部が新設され、その司令部は横田に置かれ、初代司令長官に大佐となったエディが任命されたことである。これまで、特に『Analyst in the Box』シリーズで中国に対する伏線は張られてきたが、これまでの伏線を含めたよりダイナミックな展開が期待される。その中で葉山がどのような活躍をするのか、「言葉」の中の黄金だけでなく「身体の関係」の中の黄金に気付き、情報屋として新たな扉を開くのか、大変気になる。
 対中国情勢を描く大陸編は、日米が生き残る道として描いているということである。中東と中国という二つの敵を相手にすることはできないアメリカは中東と手を組み、世界の勢力図を変えようとする。その中で、おなじみの面々は何を成すのか、キーパーソンである「美貌の愛国者」アレクサンドラはいったい何者なのか、興味は尽きない。すでに「Cool Jade」、「Eurasian Opal」、「Pagan Nephrite」、「Garnet of Power Game」、「The Peridot of Invasion Crusade」などが書かれているそうだが、ますます混沌とする世界情勢を舞台とした大陸編を拝読できる日が来ることを熱望している。(もちろんそれ以前の数々の物語も。)
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 本シリーズは、HUMINTである葉山が、人が吐き出す情報の砂漠の中から、価値ある「黄金」を探す物語である。たまたま旧軍に関する本を読んでいたところ、同じような比喩が参謀本部の情報将校の中で標語のように使われていたことを知った。その点で本作品は、米軍関係者が主人公とは言え、日本のインテリジェンスの伝統の中から生まれたものと言える。
 諜報小説初挑戦でもすんなり読め、好きな読者にはとことん刺さるシリーズでもある。今後このシリーズの刊行が続くかは分からない。すぐ本が絶版になるこのご時世、どうか作品が墓場に埋められる前に出会って欲しい。

[未刊行作品の感想の掲載にあたり、五條瑛先生に御許可をいただいております。]


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