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vol.129 太宰治「ダス・ゲマイネ」を読んで

なんとか小説家で生きていこうとする太宰の心のもがきを感じた。

「ダス・ゲマイネ」は、ドイツ語の「Das Gemeine」で『卑俗』という意味らしい。太宰は友人への手紙に、「『卑俗』の勝利を描いたつもりです」と、この作品のことを伝えている。

大辞泉、「卑俗=いやしく下品なこと。品がなく俗っぽいこと。」の勝利とは、どういうことなのだろう。

内容
主人公の帝大生「私」佐野次郎(あだ名)は、恋した女性に逃げられ、自殺まで考えていた。音楽学校の生徒馬場は、自分は有能な音楽家だと周りに吹聴する疑わしい男だった。そんな馬場が、芸術雑誌の出版の話を佐野に持ちかける。仲間を集めるため声をかけたのが、商業画家として生計を立てている佐竹と、商業的に成功している新進気鋭の若手作家で、著者と同じ名前の太宰治。雑誌の決起集会の時、馬場と太宰が口論となる。佐野は、雑誌が非現実的なものとわかり、「荒涼なる疑念」の感情から街を走り出す。その途中電車にひかれて死ぬ。(内容おわり)

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登場する四人の青年は太宰の分身なのかもしれない。この作品に何が込められているのか、自分なりに考える。

「恥の多い生涯を送って来ました(人間失格より)」という太宰の考えから、佐野のように死ねないので、生き続けるには、『卑俗』の尊さを思うしかなかった。

作品にある「目が覚めたら僕たちは生きておれない」という馬場の言葉が印象に残る。

『卑俗』の勝利とは。

高尚な生き方をどんなに目指したところで、現実の生活はままならない。それよりも、芸術で生きていくためには、俗っぽい作品の方が売れる。頭を下げて金を得て、そうやって暮らしを続けることは立派なことなのだ。尊いものなのだ。

そう思わないと、小説なんか書けやしない。

「桜桃忌」を前に太宰のもがきを感じた。

それにしても、作品を、芸術を、商業と結びつけることに、どうしてそんなに自分を卑下するのだろうか。

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今は、作品を発表することが容易になっている。商業的に成功するかは別にしても、発表の選択肢は増えた。YouTubeやnoteやvoicy、サブスクメルマガで定期的な収入を得ることも可能だ。中間搾取をすっ飛ばし、頭を下げないで個人でできる。作品の評価として対価を得ることは悪いことじゃない。太宰の時代からずいぶんと変わった。

だけど、太宰の「着飾った苺の悲しみを知っている」というピュアな感覚は大切にしたい。

おわり

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