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vol.123 太宰治「火の鳥」を読んで

人生をやり直そうとする女性の物語だった。この作品、太宰の、心中して自分だけが生き残ってしまった経験が動機となっているように思う。しかし、未完のまま終わっている。

<内容>

銀行を襲った須々木乙彦ささきおとひこというテロリストが、カフェの女給・高野幸代たかのさちよと帝国ホテルで薬品心中する。その結果、男は死に、女は生き残るというのが物語の始まり。生き残った幸代は、女優として初舞台に立ち、評判になりながらも自身の生き方に思い悩む。劇作家の三木朝太郎、新聞社の善光寺助七、幸代を支える友人の八重田数枝。それぞれの生き方が幸代と絡み合っていた。(内容おわり)

テヅカモデルノラボ

タイトルの「火の鳥」は、不死鳥のように蘇るやり直し人生を象徴しているのだろうか。

太宰や幸代が生きた1930年代(「富嶽百景」執筆の頃)、何をかてに生きるかをさらっとやり直せる時代だったのかもしれない。幸代は、生まれや育ちの環境からこう生きるしかなかったけれど、人との出会いの中で考えが変わり、ワンチャンにかけ、やり直そうと努力している。なんだか応援したくなる。

失敗すればやり直せばいいと、容易に思える社会の受け入れがあったのかもしれない。

今はどうなんだろう。

昨年流行語の「親ガチャ」でも、子どもは親を選べない、生まれた環境で人生が決まるという発想に、あきらめ感が漂っていた。先の人生に限界を感じ、「メタバース」の中で別の人生を送ろうと、そんな空間が提示されている。

’’いつのまにか給料安い国問題’’とかも、やり直すことをあきらめる社会が出した結果だと僕は思う。

やり直せない、頑張っても何も変わらない社会なら、そのうっぷんも溜まる一方だ。

小説に戻ると、「火の鳥」の時代にもうっぷんはあった。唐突に、銀行を襲うテロリストも登場する。それでも不満のぶちまけ先は、個人には向かわず、まっすぐに体制に向かっていた。

また、今はどうなんだろうと思う。

社会の抑圧感をぶちまける「うっせぇわ」は、個人に向かっていた。ワクチン接種で個人を責めるニュースも見た。「誰でもいいから殺したかった」に「わかる」のSNSが回ってきた。

なんだかなぁと思う。

久しぶりの投稿なのに、読書感想のつもりが、社会への愚痴のようになってしまった。

おわり


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