vol.92 森鷗外「最後の一句」を読んで
口ひげの、しかめっ面の、横顔写真から、森鷗外は、古くさくて、とっつきにくいと、勝手に思い込んでいた時期があった。
今では、年に一度は読みたくなる作家のひとりになっている。
それはたぶん、人間本然の姿を美し描くから、権力者たちをたじろがせてくれるから、人間の潔さや強さのようなものを感じさせてくれるから、そんなふうに僕が感じているからなのかもしれない。
この作品もそうだった。
あらすじ
積み荷の横領で処刑が決まった父、桂屋太郎兵衛を助けようと、思案した長女いちが、町奉行に嘆願書を持っていく。その嘆願書には、自分を含めその兄弟姉妹五人の命を差し出すので、父の命を助けてほしいと書かれていた。奉行所の役人は、子どもの、お上をも恐れぬ堂々とした行動に、疑念を持ちながらも、嘆願書を受け取る。
翌日、西町奉行に呼ばれた長女いちの家族は、尋問を受ける。「身代わりが許されると、本当にすぐに殺されるぞ、それでもいいのか」の問いに、家族を代表したように長女いちは、「はい」と答える。その時16歳いちが言い放った、「お上の事には間違いはございますまいから」が、役人一同の胸に突き刺さった。(あらすじおわり)
この物語は、実際の事件記録があり、鷗外がそれを情報源として、この作品を書いたという解説が、いくつかの公開している大学論文にあった。
それは、元文3年(1738年)11月下旬、大阪西町奉行所へ五人の子どもたちが出頭し、捕縛されている父親の赦免を求めたという記録は、『五孝子伝』という江戸の書物にあるということだった。
鷗外がこの儒教っぽい元ネタの「献身」を切り取って、「最後の一句」を作り上げた意図はどこにあるのだろうか。
それにしてもこの物語、現代の感覚から、当たり前のような疑問点が浮かぶ。
「どうして罪人の父をかばって身代わりになろうとするのか」、「自分の命よりも父の命が大事なのはどうしてか」、「長女いちは、断りもなく弟妹の命を奪っているのではないか」
親を敬い、年長者を尊び、自己犠牲を徳とする江戸の教育方針から、この桂屋太郎兵衛一家の感情は一般的なのかもしれない。
もう一つの疑問に、なぜ、長女いちがまっすぐに発した「お上の事には間違いございますまいから」に、奉行所の役人は、「不意打ちにあったような驚愕の色」を示したのだろうか。
ここに、この物語の肝を感じる。
大正になっても江戸時代のように、庶民のいたいけな「献身」にあぐらをかき、常にお上の位置に踏ん反り返っている官僚たちがいる。無難さの思考を見透かされているように、さらりと小娘に丁寧語で、「間違いはございますまいから」と言い放たれると、内心ドキッとするうしろめたい官僚たちがいる。
この小説を書いたころ、官僚であった鷗外は「ほどほど嫌になって軍医総監をやめる」とあった。
お上が、有無を言わさぬ「正しさ」を決めていた元文3年、新しい価値に理屈をつけて、駆り立てていた大正2年、立場ごとに都合のいい法解釈に揺れる令和2年、元号は変わるけど、権力を握った人の心は、そんなには変わらないのかもしれない。
おわり
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