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「公教育のほとんどは学習効率も極めて悪い」という事実から始めよう

戦後、欧米先進国に追いつくため、“国民の教育水準を上げる” 成果を目指してきた公教育の方法論は、個性・長所を伸ばしたり、世界に通用する人材を育てるには不向きで、今となっては時代にあわず、私たちの多くはもちろん、国も課題と認識して改善しようとしています。

それと同時に公教育は、学力(偏差値)を高めるという意味でも、効果的なやり方ができているとは言えません。学習効率も極めて悪いのが現実です。

選択肢が増えた昨今、もはや公教育は、子どもにとって最善・最高の場ではなくなりました。「子どもに本当によい学習環境を与えたいからこそ、私立学校や、学校外に学びの場を探す」が、合理的な選択といえる時代です。

人は「やりたい」「必要だ」と実感しているタイミングに最高効率で学ぶ

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子どもが最も効率よく学ぶ方法論を取り入れているのが、サドベリースクールです。「人は、本当にやりたい、必要だと感じたときに一番よく学ぶ」という考え方をします。

これには、大人である私たちにも実感があるところで、異論はないでしょう。やらなければならない勉強ははかどりませんが、趣味など好きなことについてのリサーチならば、まるで苦にならず、夢中になってしまいます。

たとえば恐竜が好きな幼児は、図鑑にある恐竜の名前を、あっという間に覚えますし、自分がやりたくてやっている習い事は、凄まじい早さで上達していきます。

(逆に、興味のない幼児に「これを暗記しろ」と指示したって覚るわけがありませんし、親の意向でやらせる習い事も上達しませんよね)

もちろん、サドベリースクールそのものが、偏差値を上げるために効果的というわけではないのですが(受験勉強が趣味のように好きだ、という子はほとんどいない)、

「やりたいという意欲」「夢中になる力」は、人間の学びにとって最高の栄養である

という事実は言えるでしょう。

子どもが学習を好きにならない=学習効率が極めて悪い

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では、学校の何が問題なのでしょうか。端的に言えば、「勉強はつまらないけれど、頑張ってやらなければいけないもの」というネガティブなイメージが醸成されやすい点にあります。

(これは公立学校だけでなく、私立学校もスタイルによっては該当する場合があります)

まず、自由がありません。時間割は決められており、意欲があろうがなかろうが、次はこれをやりなさいと強制されます。

次に、授業がつまらない(教科に興味を持てない)。

そもそも、公教育は、その存在意義から考えても、底上げの思想です。取りこぼしは当然許されず、なるべく多くの子どもに等しく教育を与えることが大前提です。

いろいろな子がいて、できるなら長所を伸ばしたいとは、現場の先生はもちろん、国だって考えてはいますが、限られた人数で多くの児童・生徒を見なければいけない仕組み上、現実問題としてできることとできないことがあります。

たとえば、できる子はどんどん先に進む、ということができません。わかっていることでも机に座って姿勢良くしてないければなりません。

テストで、習っていない方法で回答したら、答えが合っていてもバツがつけられる、という話も耳にすることがあります。学びの絶対量は少なく、個性や能力の差にかかわらず、時間もかかってしまいます。

こうした積み重ねにより、子どもの心には、どんどん勉強、学習、学びへの苦手意識が育っていきます。

昨今、高い偏差値を志向する親は、相対的に減ってきているのかもしれません。一方で、大人になって、学ぶことが苦痛だったら苦労するという実感があり、子どもに「学ぶことそのものが好きになってほしい」と感じる親は多いはずです。

学習効率の悪さはもちろんのこと、こうした点からも、公教育には問題が多いのです。

もちろん、なかには志のある教師もいます。しかしながら、教師個人に期待するのは、私たち親にとって、運任せの思考停止でしかありません。なぜなら公教育では、こちらから教師を選んだり、途中で変えたりということは、現実問題かなり難しいからです。

なお、中には「嫌な勉強でも取り組んで、成果を出すことそのものに価値がある」という考え方の人もいるでしょう。しかしながら、なにも勉強という分野で教える必然性はない、というのが私の考えです。少なくとも、学習効率を悲劇的に押し下げるデメリットに値するリターンが本当にあるのか?は、真剣に検討する必要があるでしょう。

公教育を狡猾に利用する視点を

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以上のような観点から、学習効率や、将来に役立つ学びなど、本当に子どものためになる教育環境を考えたときに、公教育がベストだと言えるケースは、極めて稀であるはずです。

学校に行かないことが、落伍者の選択のように語られた時期もありましたが、もう今はそういう時代ではありません。

本当に良い教育を求めるなら、公教育の外側で、価値ある場を見つけることは、もはや必須と言えます。ホームスクールとまでは行かずとも、私立中学受験の流れはこれを明確に示していると感じます。

公教育や公立学校に問題があるからと言って、では学校に行かない選択をするのかというと、ほとんどの方は、そこまでは踏み切れないでしょう。また、公教育以外の選択肢を探す難しさや、金銭負担の大きさは大問題です。

ですから、まずは親として、公教育で「得られるもの」と「そうでないもの」をしっかり認識すること。その上で、足りないものをどこで補うのか、公教育にこだわらずに幅広く検討し、行動すること。

小学校、中学校は、なによりも優先しなきゃいけない聖域ではありません。使えるところだけを、狡猾に利用する視点を持つのが、これからの時代、ベストの選択と言えるのではないでしょうか。

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お知らせ。ほとんどの仕事をやめて教育事業をつくりました。

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