【雑記】規則正しい生活を送るのは大変だ。;20200615
規則正しい生活を送るのは大変だ。
毎朝同じ時間に起きて、毎日同じ事をする。毎日同じ時間に家を出て、毎日同じ分だけの仕事をしたり、勉強したりする。決まった時間に運動をし、決まった時間に変わらない量の食事を取る。決められた時刻に風呂に入って、決まった回数の歯磨きをし、毎日同じ時刻に就寝する。これがいわゆる規則正しい生活で、小学校の頃なんかはよく「こういう生活を心掛けなさい」なんて言われたものだ。
だが言うは易く行うは難しで、こういうルーティンを守るのは結構難しい。誰だって経験はあると思うけど、ついつい夜更かしをしたり、ストレスを解消するために暴飲暴食をしたり、あるいは運動をしないせいで太ってしまったり、そんな事いっぱいあるはずだ。
中には偏執的に腕時計を見る人もまれにいるが、(例えば哲学者のカントは偏執的に規則正しいひとであった事で知られる)、まあ大体は、休日はだらだらして、調子のいい時悪い時がある人ばかりだろう。
しかし規則正しく物事をこなしていく事は人生にとって必要不可欠である。少なくとも私の人生にとって、それは力をもたらしてくれる。こつん、こつんというメトロノームのようなリズムを与えてくれる。そしてその力が無ければ、私はすぐに倒れてしまって、もう何も出来なくなってしまうのだ。
私だって好きでやってるわけじゃない。今だって完全に規則正しい生活はできていないし、やろうとも思っていない。休日はたまに朝からゲームをやってしまうし、極度の面倒くさがり屋なので時折日課の散歩もさぼって昼寝をぶっこいたりする。私はむしろ人より怠惰な生活を送ってきた人間だ。
昔の私はそんな「規則正しい生活」を忌み嫌っていた。ルーティンなんてくそくらえと思っていた。好きな時間に寝たり好きな時間に作業したり、気が向いた時に小説を書いたりやる気がない時は素直にゲームしたり、そういう事が人生で最も大切な事と信じていた。そして、そういう方が自分にとっては、「長い目で見れば」パフォーマンスも成果も上げやすいと思っていた。実際毎日こつこつ物事を進めるというよりも、短いスパンで一気にガッと作品を完成させる方が得意で性に合っている。それは今でも変わらない。
大学を卒業するくらいまで、その生活は続いていた。だが今はそういう不規則な生活をなるべくしないように気を付けてる。朝起きたら最初にシャワーを浴びて、パンを焼いてコーヒーを入れて、食事した後は一時間から二時間だけ小説を書く。やるべき事をノートに書き出し、その作業を日中行って、なるべく昼寝をしたりだらけたりしないようにしている。
だが、最近――数日前、リズムを崩してしまった。とある動画の製作に夢中になり、早く完成させたいと思って無理やり睡眠時間を削った。起きてる間は、ずっとその作業をやり続けていた。
新しい薬を飲み始めたせいもあった。活発に、持続的に活動できるようになるが、その代わり睡眠がうまく取れなくなった。力を持て余した私は有り余る創作欲求を振りかぶって、動画製作をまるで大猿が暴れ回るかのように進行させていった。
結果作品は完成したが、生活リズムは崩れてしまった。幸いすぐにリズムを戻す事はできたが、その間に失ったものは多かった。それは何か。「胆力」という言葉が一番合っていると思う。私はその期間中に養い、得るべきだった「胆力」の鍛錬する機会をその分だけ失ってしまったのだ。
これを上手く言葉で表現するのは難しい。「胆力」は「体力」「スタミナ」、「精神力」あるいは「効力」や「免疫」とも言えるかもしれない。ともかく今の私には表現ができないのだが、その代わりとある作家がこれをばっちり表現している。皆さんは、村上春樹を読んだ事があるだろうか?
村上春樹の小説に出てくるほとんどの主人公は、毎日毎日規則正しい生活を行う事を日課にしている。それは偏執的とまでは言わないまでも、ちょっと生真面目すぎるぐらいにはルーティンを重視している。例えば「1Q84」では主人公の一人青豆は、とある事情でマンションの一室に閉じこもらなければいけなくなった時、毎日毎日身体中の筋肉をほぐしトレーニングするのを怠らず、また寝る前にとある長い小説を読む事をしていた。また「騎士団長殺し」では小田原郊外のアトリエに住み始めた主人公は、早朝に目覚め午前中同じ時間だけ仕事をし、ランニングを欠かさず行う生活が描写されている。(ほぼほぼ記憶だけで書いているので間違ってたらごめんなさい)
文学批評には疎いのでどんな言葉と表現を使えばいいのか分からないけれど、とにかく私はそういったたくさんの人物たちから、あるメッセージを読み取った。それは、「規則的に生活をこなし、人生を運用していく事は、ある困難を乗り越えるために必要な鍛錬になる」という事である。
ルーティンにのっとって生活を続けていくという事は、生活のリズムを作っていくという事だ。そしてそれは自己の基盤を形成するのに欠かせない要素である。何故ならば突発的な「イベント」だけではなく、変わり映えのしない退屈な日常こそが、時間量における認識の割合の大部分を占めるからだ。
私は、人は流れる時間の上で生きていて、過去と未来を認識できるから自我が芽生えるのだと思う。もし時間という媒体の上に自我が成り立っているのなら、その時間の過ごし方は自我を形成する重要な要素になるはずだ。ある一定の速度で進む時間の中で、どれだけ濃密に「何か」を得られる事ができるかで、自我の密度も上がっていくと考える。
例えば寝転がってスマホをだらだら見てて気付いたら夜になっていて「ああやってしまったなあ。無駄に時間を過ごしてしまったなあ」と思う事がある。これはその時間の中で得られた情報量や体験が少ないからそう思ってしまうのではないだろうか。逆にある著名な人の講演を聞く機会があって、それが充実した内容だったならば、その二時間くらいの時間は「とても濃密な」事を得られたと思えるし、「いい時間だったな」と思える。
ただ、濃密な時間、例で言えば良い講演は、「特別な時間」でありゲーム的に言えば「イベント」である。毎日毎日24時間、ずっと異なる「イベント」が起こったら得るものはたくさんあっても、きっと疲れてしまうしうんざりしてしまう。ずっと「ハレ」が起きていては意味が無くて、「ケ」があるからこその「ハレ」なのである。何よりずっと「新しい体験」ができる環境に身を置けるかどうかも、現実問題難しいかもしれない。
だから日常をどう過ごすかが大切になってくる(それは「ケ」であり人生の大部分を占めるからだ)。確かに日々好きなタイミングに起きたりゲームしたり真面目に勉強したりするのは楽だし、心地いい。何しろ「好きに」自分の人生を運用できるからだ。だがそこにはリズムが生まれない。リズムとは定期的に繰り返されるものであり、不定期な「好き」のタイミングで物事をこなしていては訪れはしないものだからだ。
日々ルーティンを繰り返して生まれる生活のリズムが、「何か」をもたらしてくれる。おそらく「何か」とは「胆力」なのだが、まだはっきりとは分からない。ただそれについて村上春樹は物語という形で教えてくれる。つまり「生活のリズム」を作り出す事は「困難を乗り越える」ために必要な「鍛錬」になり得る。何か力か福音のようなものを与えてくれる。
「ノルウェイの森」という小説に好きな表現が出てくる。主人公がある女性に向けた手紙の中に出てくる文章だ。〈ときどきひどく淋しい気持になることはあるにせよ、僕はおおむね元気に生きています。(中略)僕も毎朝僕自身のねじを巻いています。ベッドから出て歯を磨いて、髭を剃って、朝食を食べて、服を着替えて、寮の玄関を出て大学につくまでに僕はだいたい三十六回くらいコリコリとねじを巻きます。さあ今日も一日きちんと生きようと思うわけです。〉「ねじを巻く」という表現がとても好きだ。
「ねじを巻く」、つまり生活のリズムを作っていく事が、今の自分には必要だと思っている。これから生活し、いつかは自立するにあたって、あるいはやるべき事をやるにあたって、胆力を鍛える事が欠かせないのだと思う。何より自分は今まさに困難に遭っている時であり、だからこそ「日々の生活をこなす」事で「自我をきちんと作り上げていきたい」と考えている。
前の記事で、人生においてやりたい事はもうなくて、やるべき事について考えを巡らせていると書いたけれど、きっと「ねじを巻く」という事もやるべき事の一つなんだと思う。そして私はいつか「何か」を得られたら、と思う。生まれてきて良かったなと思えるものを。
今日もこれを書く前に散歩をした。むしむししてコンクリートから反射してくる光がうざい事この上なかったが、地面から昇ってくる新緑の草のにおいが妙に心地よかった。以前よりも体力がもったので速足で歩いてみたら、家に辿り着く頃には背筋が痛くなってへとへとになってしまった。明日も明後日もねじを巻いていきたいと思う。ほどほどに頑張りましょう。
今回は何か国語の試験に出てくる小論文みたいな文章を書いてしまいました。別にいいのだけれど。ここまで読んでくれてありがとうございました。貴方の人生に幸運を、貴方の自我に祝福を。
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