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ずっと味が消えない(ただし美味しいわけではない)ガムのように。チェルフィッチュ✕金氏徹平『消しゴム山』は続く

1度観た舞台の感想が再演で深まることは珍しくない。というか、ほとんどの場合がそうで「前回、自分は何もわかっていなかった」と痛感することしばしばなのだが、『消しゴム山』は別格だった。あまりに大きく印象が刷新されたので、2月、その感想をTwitterに連投したのだが、そこからまたつらつらと思うことがあり、ここにまとめることにした。

『消しゴム山』は、チェルフィッチュの岡田利規と美術作家の金氏徹平が協同で創作した舞台作品で、2019年、ロームシアター京都で世界初演された。私はこれを観ていて自分なりに楽しんだのだが、客席の空気は上演が進むにつれて困惑の色が濃くなり、途中で帰る人も(日本なのに!)複数いたし、Twitterでもネガティブな感想を散見した。私は自分なりに楽しんだのだけれど、そうした反応も充分理解できた。つまり問題作だ。

この作品の出発点は、岡田が'17年に陸前高田に行った際、津波防止のために10mほどの堤防がつくられており、その材料捻出のために近くの山が削られているのを見て感じた衝撃だそうで、人間の都合でいとも簡単に自然が破壊されている様子に、人間の尺度だけではない演劇をつくろうと思ったことだという。
そう聞けば、「環境破壊反対」もしくは「自然と人間」をテーマにするのだろうと考えるのが一般的だと思うのだが、岡田は斜め上を行く。『消しゴム山』に山や海などの自然は(少なくともせりふや美術には)出てこない。上演されたのは「モノと人が完全に対等な関係にあることを目指した演劇」または「モノのための演劇作品」だった。

大まかな内容は以下の通り。
洗濯機が壊れたことを説明する長いモノローグから始まる物語は、修理業者の休日や、最寄りのコインランドリーの様子など、洗濯機の故障と関係するいくつかのエピソードの合間に、公園の見慣れない遊具がタイムマシンらしいという話や、モノ達に向かって人間が持つ時間の概念を丁寧に説明するシーンが混じる。話者は交代し、洗濯機が壊れた様子を話す人物と、コインランドリーに行くようになった人物、壊れた洗濯機を「この人」と呼んで寝室に運んで一緒に暮らしていくと決めた人物は、それぞれ別の俳優が演じる。
また、舞台上にはテニスボールやマット、土管のようなオブジェ、木の根っこのようなもの、姿見などが所狭しと並べられ、せりふを喋っていない俳優はそれらを並べ替えたり始終いじっている。また、ビデオカメラが置かれ、舞台にいる俳優の姿がオブジェに映されたり、別撮りした俳優の映像が舞台上に吊るされた布に映写されたりもする。

私が初演を観て“自分なりに楽しんだ”のは、主に美術と俳優の関係だった。2階席から観たため、舞台に配置されたモノ達が、用途や属性はバラバラでありながら全体ではひとつの模様に見えること、俳優が無表情で延々とそれらを運んだり元に戻したりしている姿が、おかしな表現だが“良い徒労”に見えて、そこはかとないユーモアを感じたりしたのだ。

★以下、ツイートを校正して転載
ところが、今年2月にあうるすぽっとで再演された同作を観て愕然とする。2年前の京都公演とは完全に別物だった。俳優の練度とか、舞台上のモノ達のリラックスぶりとか、いろいろ理由は考えられるけれど、自分が何もわかっていなかったことを突きつけられた。これは始めから終わりまで、具体的に東日本大震災についての話だった。

開演して間もなく、修理業者が言う「洗濯機はどうしても全体が揺れるので、バックフィルターに負荷がかかって外れるんですよ」というせりふは、地震が起きる構造の例えだ。海底のプレートが少しずつ動いてエネルギーが溜まり、ある時、一気にそれがズレて地震が起きるのを、洗濯機の故障に置き換えていたのだ。
「平面だったものが解放されて隆起する自由」というせりふは、舞台上に置かれたモノの説明だと思っていたが、そうではなくて地震時の地面のことだ。俳優がいじるマットは、正面から見ると平たく、立てると長方形で、丸めて上から見ると円になるが、これはひとつの形に固定されない「自由」を持つ存在であり、その点で、下から押し上げられて揺れて形を変える地面の仲間だった。
また、時間が重要なテーマなのは理解していたつもりだったけど、批評的な眼差しで扱われていたとも気付かなかった。人間がモノに向かって懇切丁寧に時間の概念を説くシーンを、初演時、ユーモラスに感じた私の鈍感さ。
なぜならモノ達だって経年劣化し、やがて機能や形を失うわけで、時間は人間だけの問題ではない。それなのに、モノには時間の概念が無いだろうという前提で説明するあの考え方こそが、この作品が問う人間中心の象徴だった。「人間はこんなものに縛られちゃっているんですよ」という一見、低姿勢な物言いこそが、上から目線なのではないか。
そして決定的だったのは最後のせりふ。人間という観客がいなくても存在し続ける、モノ達の、自然の、美しい風景を、飾り気はないが詩的な言葉で描写し、讃えたあと、次のせりふでこの作品は終わる。
「いいと思ったフレーズを書きつけた途端、コンピュータが止まり、画面が真っ暗になった。」 
つまり「時間の異なる尺度の世界に乗り換え」るためのレッスンだったはずの『消しゴム山』は、電気(もちろん原子力発電による)とつながった即物的な便利さの上でかろうじて成立しているという思い切り皮肉な告白。
1年半前の呑気な自分に落胆するとともに、この作品の怖さに打ちのめされた。
★転載ここまで。

そして先日、あるAR作品を観ていたら、ヘッドホンで聴覚を刺激されたからか、『消しゴム山』上演中にずっと聞こえてきたガタンガタンガタンガタンという音が脳内に蘇った。小型コンクリートミキサーのようなモノの中に何かが入っていて回転している唸り音で、かなりの音量を放つ。初演ではドラム式洗濯機の作動音を模しているのかと理解していたのだが、バックフィルターが外れるのが地震が起きる構造を示しているなら、あの音は海底の奥底で地層が動いている活動音なのではないか。私達にはそれが聞こえないだけで、地球はずっと唸り続けているのではないか。
こんなふうにまだしばらく、味が消えないガムのように『消しゴム山』については考え続けていきそうな気がしている。

ひとつ書き忘れていた。再演のあうるすぽっとの客席は、パフォーマンスが進むほど客席の集中力が高まり、最後の拍手はお世辞でなく、観客の興奮の度合いが伝わってくる熱いものだった。京都と東京という地域差ではなく、やはり作品が変化し、成熟していたのだと思う。

ちなみに、同じコンセプトの美術館版の『消しゴム森』が'19年12月に金沢21世紀美術館で上演・展示され、私はこれも観ていて、劇場よりもむしろ近くからモノと俳優の関わり、交わりを感じられ、やはり自分なりに楽しんだ。けれども、昨年5月から不定期に配信された、日常における人とモノと空間の新たな関係を探るというコンセプトの『消しゴム畑』は数回で挫折する。これは、俳優のプライベート空間にも見える場所に定点カメラを置き、Zoomのギャラリーのように並べられたモニター画面から淡々と流れるそれぞれの時間を眺めるものだった。
『消しゴム山』再演で少しだけ覚醒した私は、次に『消しゴム畑』を観た時、挫折しないで何かを発見できるだろうか。


*この記事の見出し上の写真、noteのフリー素材から選んで使用したんですが、『消しゴム山』の内容とぴったりで、最後まで書くモチベーションを支えてもらいました。hiro hasuikeさん、ありがとうございます。

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演劇ジャーナリスト。著書に『我らに光を』(さいたまゴールド・シアターインタビュー集。河出書房新社)、『演劇最強論』(藤原ちから氏と共著。飛鳥新社)、『「演劇の街」をつくった男 本多一夫と下北沢』(ぴあ)。ツイッターはk_tokunaga