【14】ふたつの甲州プロジェクト
日本でワイン造りに連綿と使われてきたブドウ品種「甲州」が、一説によると「行基という奈良時代の高僧が日本に伝えたとされている」というトリビアは川原泉『美貌の果実』で知った。
その「甲州」は、日本古来の品種で食用にもされてきたのだが、遺伝子的には欧州のワイン用ブドウが属するVitis vinifera種に近く、7割以上はVitis viniferaであることが近年の研究で明らかになった。
(学名は正式にはイタリック表記。本稿中、以下も同じ)
最初は「甲州の遺伝子を調べてみたらVitis viniferaだった」と言っていた時期もあったのだが、さらに詳細に調べてみたら、中国あたりのブドウの遺伝子が若干混じっていたことがわかった。
単純にVitis vinifera種と中国品種が自然交配しただけなら、1代目なら遺伝子は半々になる理屈なので、大雑把にみても、一度交雑した雑種が少なくとももう一回はVitis vinifera種とかけ合わさっていたことになる。
つまり、欧州の原種がおそらくはシルクロード経由の交易で運ばれるうちにどこかの土地で現地のブドウと交雑し合い、そんなブドウの一つが日本にまで伝えられて、今まで栽培されてきたということで、行基ゆかりのお寺に伝わる/それをもとに川原泉の描いた「甲州」縁起は、実はけっこう正解に近いかもしれない話だったわけだ。
その「甲州」が、日本でも白ワイン醸造の主要品種として連綿と使われていた、というのはちょっと不思議な話だろう。
とはいったものの、「甲州」のワインは欧州の代表的な品種と比べると、よくいえばプレーン、悪くいえばあまり香味に品種特有の特徴が少なく、もの足りないと言われることが多かった。
『美貌の果実』では、女子高生のヒロインが切り盛りする家族経営のブドウ農園・ワイナリーは栽培理論とか醸造理論とか醸造哲学とかは深く考えずにお気楽にブドウを栽培してお気楽にワインを造っていたら、ある時ワイン評論家が大絶賛して人気が出てしまうのだが、それはマンガの中の話。
現実世界では「甲州」の可能性を引き出すために親子2代で奮闘したワイナリーがあったのだ。
中央葡萄酒の三澤茂計、三澤彩奈の両氏が2代にわたって取り組んできた「甲州」ワインの品質向上の取り組みをわかりやすく語った好著。
食用としても出荷されていた「甲州」は1本の樹からたくさんの実が収穫できる「棚つくり」で栽培され、必ずしもワイン醸造に適した品質を目指して栽培されてこなかった。
父の三澤茂計氏の代でも、自社で畑をもち、欧州のブドウ栽培で一般的な「垣根つくり」を試行錯誤するが、その時は成功に至らなかった。
それでも、地区全体のワインの品質向上を目指して組織作りをしたり、世界のワイン評論家や輸出のためのバイヤーらとのコネクションを強化し、そういった地道な取り組みが、やがてボルドー第二大学のデュニ・デュブルデュー教授との「甲州」プロジェクトに結実する。
ボルドー大との「甲州」プロジェクトの存在は知っていたが、本書を読むと、その全体像がよくわかる。
一方の娘さんは読んで驚くアクティブさ!
ボルドー大でもワインを学ぶのだが、ひとつのやり方にこだわることなく、ブルゴーニュにも赴き、フランスの伝統的な栽培、醸造をひととおり学んだ後は世界へ!
日本のワイン作りがオフシーズンとなる時期に南半球のニューワールド(オーストラリア、ニュージーランドから南米、南アフリカまで!)でワイン武者修行を重ねる。
そうして幅広く学んだ栽培理論、醸造理論から、ついに「甲州」を「垣根つくり」で栽培し、従来の栽培法では実現できなかった高い糖度の「甲州」の収穫に成功する。
この親子2代の取り組みは、ある意味泥臭い栽培と醸造の現場の取り組みでありながら、原理原則を学びつつ、試行錯誤を繰り返すプロセスは、実はとても「科学的」だ。
一方、むしろ「科学的」な発見から始まったもうひとつの「甲州」プロジェクトがあった。
ボルドー第二大学で「白ワインの魔術師」とうたわれたデュニ・デュブルデュー教授に師事し、ソーヴィニオンブランワインの品種に特有の香りが極微量で強烈な香りを放つ「チオール化合物」によるものであることを解明した富永敬俊博士のもとに、旧知のメルシャンの技術者から「ソーヴィニオンブランのような香りのする甲州」のサンプルが持ち込まれる。
分析してみると、たしかにソーヴィニオンブランとおなじ「チオール化合物」がみつかった!
それをきっかけに、「甲州」のチオールの香りを特徴にしたワインの開発が始まった。
この「メルシャンきいろ香」の開発プロジェクトの全貌は、富永博士の伝記として書かれた『甲州のアロマ』で読むことができる。
先に紹介した「甲州」プロジェクトと、メルシャンのプロジェクトは同じデュブルデュー研究室で並行して進められていた。
『日本のワインで奇跡を起こす』と『甲州のアロマ』は、それぞれに「甲州」の新しい方向性に取り組んだふたつの「甲州」プロジェクトを知る上で、対になるべき本だと思う。
メルシャンとのタッグで「きいろ香」を開発した富永敬俊博士は、その後2008年に急逝された。
富永博士の恩師でもあり、「白ワインの魔術師」と称えられたデュニ・デュブルデュー教授も2016年に世を去った。
それでも、二人が日本の「甲州」のためにしてくれたことは、これからも残り続ける。
それは、ワインのように、伝統技術で作られるものでも、「科学」との連携で新しい取り組みができる好例だと思う。
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