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『あやうく一生懸命生きるところだった』 | 読書記録

生きやすく幸せな在り方で、堂々と今を生きる。

裸のおじさんがうつ伏せ。背中に猫。友達の絶賛がきっかけで、どこまでもゆるいこの独特な表紙と不思議なタイトルに惹かれ、読んでみることにしたこの本。

ここには、学校では教えてくれなかったことがたくさん書かれていました。見方を変えれば負け組の正当化のようにもみえてしまうこの本は、読むタイミングによってはおすすめできない本かもしれません。

どの本もそうだけれど、本に書かれていることを鵜呑みにするのは危険で、結局は自分が使いやすい武器になるよう解釈を加えて味わうことが大切なのだと思う。( 思っているだけで実践は難しい...。)

" あやうく一生懸命生かされるところだった "

私は、タイトルをこう解釈したい。一生懸命も素敵だと思う。ただ、誰かの決めた枠のなかで一生懸命に生きようとするのではなく、一生懸命になるのであれば一生懸命を楽しまないと損だと思いました。そう「一般善」を見つめ直させてくれた本書の中で、特に心を打ってくれたのは次の2つでした。

誰かのために一生懸命になっていないか

僕らの社会には"この年齢ならこれくらいは"という「人生マニュアル」が存在する。そして、誰もがそれに合わせようと努力する。
これまで欲しがってきたものは全部、他人が提示したものだった。

受験、就職、結婚。著者の生きた韓国も、私たちの住む日本も、本当に忙しい。もしもこの世界が自分以外人間でなかったら、どんな生き方を選ぶんだろう。そう考えると、誰かのおかげで生まれている幸せの基準があまりにも多いことに気づく。

でも正直、どうしてもそこから逃れられない気がしています。どこに行ってもやっぱり人と生きる必要があって、選ぶ選ばれるの関係があり、自己理解のために比較をしてしまう。今できるのは、承認欲求の奴隷になって他人に自分の人生を操られないよう気をつけること、かなあ。理解はできても、アドラーの実践はまだ少し難しい。

自分を苦しめるのが得意な私たち

本来、楽しむことが目的のなぞなぞに、僕らはあまりにも死に物狂いで挑んでいるのではないか?答えを探し出すことだけ集中し、問題を解く楽しさを忘れてはいないだろうか?
リスは、ほかのリスより美醜に劣るとか、ドングリを集められなかったからといって自殺したりはしない。動物たちには幻想がなく、ありのままの自分で生きている。現在の自分の姿に悲観し自殺を選ぶのは人間だけなのです。
結果のために耐えるだけの生き方じゃダメだ。過程そのものが楽しみなのだ。

生き方に正解はない。でも努力すること、現状に満足しないこと、困難に立ち向かうこと、それらは正解のようにみえる。それは、一生懸命に生きることが立派だと信じてきたから。でも、もしその一生懸命がすべて未来のためだとしたら。文字通り、一生命を懸けてしまっていたら。犠牲になっている今も自分の人生であるはずなのに、どうして人はこんなに一生懸命自分を苦しめたがるんだろう。

もちろん私自身、困難や挫折経験から学んだこと、それらを乗り越えたからこそ見えた景色がたくさんある。でもそれも呪いなのかもしれない。綺麗事が綺麗なのは、綺麗であってほしいと願っているからなのかもしれない。

大切なのは、生き方にちゃんと意志を宿すこと。誰かのせいにできてしまう選択は間違いで、あとは自分で幸せになれる方を選ぶこと。同じ道でも、風と息を感じたいと走る人もいれば、景色を楽しみながらのんびり散歩したい人、どこでもドアを使う人もいる。1番怖いのは、あたかもその道を何かのレースと勘違いして、無我夢中で走ってしまう人なんだろう。

まあ、必死だとか一生懸命だとか、そうした汗臭い言葉は難しく考えれば考えるほど遠いものになってしまうから、小さな楽しみを日常に仕掛けて、自分のペースで生きることに堂々としたい。そしたらいつか、裸で寝そべってて、猫が背中に乗ってたりするのかもしれない。

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