進学校の「罠」

 昨今、(とはいえ僕が高校生の時には既に存在していたが)「自称進学校」という言葉をあちこちで見かけるようになった。定義としては、「入学偏差値が50より上~70に届かないぐらいで、『進学校』を自称しており補習や大量の課題を組み込んだカリキュラムを編成しているが、それに対して進学実績が見合っていない高校」といった感じらしい。僕は2つの高校に通って(1校目は1年で中退、再受験で2校目に入学して卒業、計4年)、うち1つ目の高校は(あくまでその定義に従うならば)「自称」ではない「本物」の進学校であった(その都道府県下で「公立御三家」と呼ばれる高校の一角。ただし他の進学校と比較すると年度ごとの実績のばらつきが割と激しく、僕の入学年度とその前年度は京大の現役合格者が10人前後だったため「自称化」を指摘する声もあった)。僕の代は確か現役で30人弱、浪人を合わせると30人以上の京大合格者を輩出しており、「進学校」の肩書を引っ提げても何らおかしくない数字ではある。

 ※ちなみに「進学校」という言葉の本来の定義は「在校生の大部分が就職ではなく進学を選ぶ高校」というだけの意味らしいので、これに従えば現在進学校の定義として用いられているものは誤りということになり、「自称進学校」なる概念はそもそも存在しないことになる。

 高校選びにおいて、進学校にこだわるという方針(悪く言えば偏差値至上主義)というのは決して悪いわけではない。大学では必ずしも上に執着する必要はないが、高校の偏差値というのは進路選択の幅に直結するため、多くの選択肢を確保しておくという意味で可能な限りレベルの高い学校を目指すのがベストである、ということに異論がある者はそこまで多くはないだろう。

 さて、「自称進学校」と揶揄される高校には、どうも「国公立大学への進学」に異常なまでに固執する傾向があるらしい。というのも、それらの高校が「国公立大学合格者数」をアピールするのは、「子供の学費は可能な限りケチりたい、されどネームバリューのある大学に進学させたい」という保護者の死ぬほど身勝手な願望を見透かした上での戦略であり、それを達成して学校経営をより円滑に進めるためのやり口だと僕は推測している。そうなると、例え早慶上智であろうが私大志望者は学校側を妨害する邪魔者とされ、そういった生徒は結果的に教員から冷遇されていくのだ。

 しかしながら、この「国公立大学至上主義」というのは実際に目立った実績を残している高校には当てはまらないわけではないらしく、その実僕は1つ目の高校でそれに直面した。当時から既に私大を志していた僕に対して担任は進路面談の際に所謂「国公立ハラスメント」を行い、これは僕がこの高校を中退した理由の1つとなっている。

 ……と、ここまで述べておいてアレだが、今回僕がこの記事のタイトルになっている「進学校の『罠』」というテーマについて語りたいのは、こういった進学実績を中心とした内容ではない。今から話すのは、むしろ「自称」ではない進学校に入学した、あるいはこれから目指そうと思っている者たちに届けたいことである。

 時は僕が中学3年生の頃。当時僕は、今とはまるで別人のように校内では学業の成績が優秀で、その後入学することになる1つ目の高校の受験に向けた勉強に勤しんでおり、授業中に内職で赤本を解くほどの力の入れようだった。その甲斐あって、僕はその高校に決してギリギリではない成績で入学することができた(得点開示の結果から推察するに、合格者の中では真ん中ぐらいであったと思われる)。しかし入学して間もなく、僕は恐ろしい現実を突き付けられることになる。

 無事進学校に入学した僕だが、僕には周囲の他の生徒たちと比べて強みになるものが何一つなかった。──なぜなら。

 進学校というのは、中学時代、勉強はできて当たり前で、その上で周囲との交友関係を築き、さらに部活なり趣味特技なりに力を注いできた完璧超人たちの巣窟だったのである。対して僕はといえば、もともと中学でいじめられていたがゆえに地元の通学圏を避けてその都道府県の市町村全域から通学できるこの高校を目指し、中学時代の3年間、学校生活における勉強以外のほぼ全てを犠牲にした結果ようやく合格を掴み取ったわけだ。勉強ができて当たり前の環境において、「中学では秀才だった」というのは何の個性にもならない(首席レベルの化け物でもない限り)。これが原因で、僕は周りと比べて何も持っていない自分に絶望し、アイデンティティクライシスに陥った。入学直後から既にその状態だったために、学業ですら結果を残せず名実ともに「何も持っていない人間」になってしまったのである。「進学校の中では落ちこぼれだが勉強以外にできることがあるので埋もれない」というケースであればまた別だが、そうでもなければ救いようがない。最終的に僕はノイローゼのような状態になり登校拒否を始め、これが中退の最も大きな要因となった。

 こういった現象は、大学まで進学すればかなり数としては減るものである。規模が高校とは段違いな上に、ピンからキリまで様々な人物がいる。また、ゼミ形式のような講義を除けば高校のようなクラスが存在するわけではないし、毎日長時間顔を合わせるクラスメートや担任もいない。だがしかし、高校で(あるいは中高一貫校における中等部の時点でも)この危機を乗り越えられなければ、大学進学自体が非常に厳しくなってくる

 読者諸兄の中に同じような経験をした方はいるだろうか。いたら多分僕といい友人になれそうだ。いつか一緒に話をしてみたいところである。

 そしてこれから進学校を目指している中学生諸君へ。

 君には何か、「勉強以外の個性」があるか?

 持っていなかったとして、これから作る努力ができるか?

 最終的に進路を決定するのは君たち自身である。ただ、その前に一瞬立ち止まって、この2つについて少しでも考えてくれたら僕は嬉しいし、君たちのこれからにとってプラスになるともまた思う。

 読者諸兄の辛さの言語化への助力となること、そしてこれから受験を控えている中学生たちの一つの道標となることを祈って。


 

 

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