#52 エッセイ、とは。
こんにちは、鏑木澪です。
今日まで52日間、『Mio's Diary』と銘打って私が書いていた記事には
#エッセイ
#日記
#ブログ
この3つのハッシュタグが必ずついています。
他にも毎回つけているタグはありますが、今回はちょっと無視します。
私がnoteを始めたのは、TwitterのTLに流れてきたとあるエッセイストの記事を読んだのがきっかけだったと記憶しています。
(記憶力が絶望的な上に、都合よく書き変わる部分があるのを否定できませんが、現在の私はそういう認識です←)
私は長らく、「エッセイとノンフィクションの違い」がわかりませんでした。
「ノンフィクションと書いて、”記憶の美化”と読む」
そんな印象があって、小説を読むのは好きなはずなのにノンフィクションは毛嫌いしていました。
フィクションにどんな都合のいいことが書いてあっても、「作り話だからね」と許せて楽しめるところが、ノンフィクションといわれると「”現実”を都合よく解釈しすぎだろう」と腹を立てていたのです。
エッセイはというと、
「誇張した自慢話がツラツラ書いてある」
ノンフィクションよりもさらに悪い印象が私の中にありました。
要は、
「実際にあった、他人の”印象的な出来事”なんぞ、聞きたくないわ」
そんな気持ちが強かったです。
小学生の頃は、単に「難しい」と思って読めなかったものが、中高生の頃は「それなりに理解できるけど、したくないし、自分の現実とかけ離れすぎていて共感できない」と、自分の余裕のなさからくる拒否反応だったのだと思います。
大学生になってから、課題でエッセイを読んだり、書いたりする機会が増えました。
大学の課題で出るエッセイは、多くの場合「小論文」的なものであって「随筆」ではなかったのですが、大学1年生の頃は少し混乱してしまっていました。
引用して書くような課題は問題なくこなせていましたが、「そのうち随筆を書かなければならない課題が出るに違いない」と勘違いした私は、焦って図書館にある”エッセイ”を読み漁りました。
はっきりいって、吐きそうでした。
私は比較的読むのが速いほうだと思うので、「内容の把握」を目標とした読書ならあまり時間はかかりません。
それでも、大体1冊読み終わるまでの10分がとても苦痛で、途中で挫折したものもたくさんありました。
大学1年生の私は、自分でいうのもなんですが、わりと真面目でした。
高校はスポーツが中心の生活でしたが、それはあまり肌に合いませんでした。
部活動に吸い取られていた時間を取り戻した反動で、勉強したくてたまらなかったのです。
「課題のため」と思って、読んでいました。
自分の所属学部も含め大学がどういうところかわかっていれば、「随筆を書け」なんて課題、基本的に出ることがないのがわかるはずなのですが、1年生は無知です。
先生たちに文句をいうなら課題を「エッセイ」ではなく、「レポート」と呼んで欲しかったです。単なる「調査結果」ではなく「面白みのある文章」の意味で、「エッセイ」を課題にしたのかもしれませんが、なにも知らないお子ちゃま(私)には説明不足です。(自分の理解力がないのを人のせいにしてはいけません←)
今の私が書いている”エッセイ”は、「随筆」というより「雑文」だと思われます。
それにしても、「ノンフィクション、エッセイ、大嫌い」みたいな人間だった私が、今はそういった文章を読み書きしているのが、自分でも意外です。
冒頭で挙げたエッセイストの影響は大きかったです。
生い立ちから家族構成まで、「物語でもそこまでの設定はなかなかない」といいたくなるような人でした。
「絶対、押し付けがましいこと書いてあるんだよ」と思いながらも読んでみると、面白おかしく切り取られた日常がとても輝いて見えて、不思議と吐き気もせず、むしろ楽しめました。
「ノンフィクションだろうが、エッセイだろうが、結局は物語」
そういう考え方に変わってから、それらの話を受け取りやすくなりました。
自分の目の前で起こったことすら、どこか他人事で「誰かの物語」のように感じる出来事もありますから、無理に線引きすることもないと思うようになりました。
「現実見たけりゃ、ドキュメンタリー見とけ」
ものすごく語弊があると思いますが、今はそんな気持ちです。
それでいうと残念なのは、私の考え方を変えてくれたこのエッセイストも本を出版したり、だんだん人気や知名度が上がってきたりして露出(本人が表に出てくる仕事)が増えてから、私には共感できない記事が増えてきました。
「共感できる文章がある」ということは、必ず、「共感できない文章もある」のだと改めて思いました。
おそらく私は、ノンフィクションやエッセイと呼ばれる作品の中で「今の私には共感できない」ものにあたることの多い人間なのだと思います。
そもそも「他人の経験に自分を重ねて共感できる」状態が異常なのだと思う瞬間もあります。
他人を共感させられる物語を作れる人たち(作家さん)って、
褒め言葉としていいますが、やはり「異常」だと思います。
作り話か、現実に基づいた話かは関係ありません。
話が色々なところに飛びましたが、まさに「雑文」ということで、いつものように起承転結も、オチもありませんが、「日記」を書くのにそんなことを考える人はあまりいないと思います。
一応、私の日記は「人に読まれることを意識して書いている」ので、「意見を述べてみよう」と思い、”エッセイ”を名乗っています。
最近、noteの「あなたへのおすすめ」に「エッセイとはなにか?」と考えさせられるような記事が多かったので書いてみました。(すぐに影響を受ける←)
よくわかりません。
(これだけ書いてきたのに結論、これです)
強いていうなら、どこまでが本当(現実)でどこからが嘘(作り話)かわからない、そんな感じで「自由に書いた文章」で良いのだと現在の私は思っています。
嘘(作り話)のつもりはなくても、どこかで「認識がねじ曲がる」ことは少なくありませんから、
「立ち止まって考える機会(これでいいのか?)」
「ある時点での自分の認識(あの時、どう思っていた?)」
そういう疑問を自分に投げかけたり、記録を残したりする意味で私にとって有効なものだと思います。
(恥ずかしいので、読み返す頻度はかなり低いです)
いつか、なにかの役に立ってくれたら嬉しいです。
ではでは〜
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