【短編小説】 水たまりとおしゃべり

 晴れた日の水たまりが好きだ。

 乾き始めた地面に残された水が、アスファルトの色を濃くしている。

 学校に行かなければ、と思うのだけれど、どうにもめんどくさくて、ハンドタオルを座布団がわりに腰掛けた公園のベンチに、私のお尻から生えた根がしっかりと根付いてしまったようだ。

 もう、動けそうにない。

 というより、動きたくない。

 別に、学校で嫌なことなんてなかった。
 成績も悪くないし、友達と呼べる人もいるし、親や先生に叱られることもない。

 だから、ちょっとした出来心で、今日くらい学校を休んでも良いんじゃないかって、どうして急にそんなことを思ったのか、自分でもよくわからない。

 普通に「行ってきます」と家を出て学校に行かないのは、今日で3日目。

「……の母です」と落ち着いて艶のある声でも出しておけば、教師は疑わない。

 積極的に担任と話すほうの生徒ではないから、声を覚えられていないのは当然かもしれない。
 私だと気づかず「かしこまりました」と丁寧な言葉で話しながら受話器に頭を下げている担任の姿が目に浮かぶようで、少し後ろめたい。

 ごめんね。

 こんなに続けて休んだあと、どんな顔をして学校に行けば良いのか、わからない。

 これまで、ずっと皆勤賞だった。
 学校を休んだことなんてない。

 ちょっとだけ、ほんの少しだけ、悪いことをしたってバチは当たらない。
 バチを当てるようなのは、神様じゃない。

 学校を休むのって、そんなに悪いことじゃないでしょ?
 ズル休みしてる子って、そのへんにいっぱいいるんじゃないの?

 もう、よくわからない。


 不意に水たまりが跳ねた。
 まるで、誰かが踏んで行ったみたいに。

 乾いた地面に足跡が、ひとつふたつと増えていく。

 誰か、歩いてる?

 誰もいないのに、足跡だけが点々と伸びていき、やがて薄れて消えた。

 新手の現実逃避かな。
 透明人間じゃあるまいし、足跡だけ残して行くなんてありえない。

 幻覚だ。
 バチが当たったんだ。

 明日は、ちゃんと学校に行こう。
 こんな変なものまで見えるようになっちゃうなんて、どうかしてる。

 バシャッ!

 再び、水たまりが大きな音を立てて激しく跳ねた。

 妖怪とか、心霊の類なのだろうか。
 私にそういうものを見る能力はなかったはずだけど。

 どうしよう。

 水たまりから出た足跡が、こちらに向かって勢いよく迫ってくる。

 嘘だ、嘘だ。
 なんの冗談?

 これ、明日の新聞記事で「……さんが行方不明になっています」的な件になるやつかな。

 いや、そんなにすぐにはニュースにならないか。
 ただの”家出した女子高生”扱いだろうな。

 この状況で呑気にそんなことを考えている自分が信じられない。

 足跡は私の前でピタリと止まった。

 なにもない空間に目を凝らしている私は、側から見ればさぞ滑稽だろう。

「……あの、誰かいますか?」

 話しかけた私は、もはや変人の域だろうか。
 近くには誰もいない(と思われる)ので、気にしない。

「……もし?」

 電話でもないのに「もし?」なんて声をかけるのは、古風な物語のお姫様くらいなものだ。

 なにをしているんだ、私は。

 ピシャ!

 また控えめに跳ねた水たまりから、水滴を落としながら足跡が近づいてくる。
 それは、私の前で止まると水溜りに向かって矢印を書いた。

 こっちにおいで、ってことかしら。

 根が生えていたことも忘れて、すんなりと立ち上がれたことに驚きながら、ゆっくりと水溜りに近づいていった。

〈良い天気ですね〉

 水たまりの横の地面に文字が浮かび上がった。

「えっ、なにこれ」

〈少し、おしゃべりしませんか?〉

 相手には私の声が聞こえているようだ。

〈少しだけ、お願いします〉

 ”少しだけ”、か。

 相手がいったい何者なのかわからないけれど、今のところ害はなさそうだし、少しくらい、良いよね。

「いいですよ。お話しましょう」

〈ありがとう〉

 その文字は、少し震えているようだった。


 少しだけといっていたのに、下校時間まで話し込んでしまった。

 相手が文字を書く間、少し待たなければならないので、会話のペースはゆっくりだったけれど、それが煩わしいと感じることはなかった。

 仮にこの人のことを”たまさん”と呼ぶことにしよう。

 なんだか、猫っぽいあだ名だけれど、話した感じ猫っぽい人だったから、ぴったりだと思う。

 たまさんと私には、共通点があった。

 同じ歌手が好きなのだ。

 あの歌詞が好きだとか、あのメロディーが好きだとか、あの曲はこのようにして作られたらしいとか、そういった話で盛り上がった。

 これまで、身の回りに同じ趣味の子はいなかったから、こんなに好きなものについて話せたのは初めてだ。

 しかも、たまさんと私は感じ方が似ているのか、同じ曲の同じ部分に惹かれていた。

 たまさんと話すのは楽しい。
 やっぱり、神様はバチなんて当てない。

 家に帰る時間になり、私は迷わず「また明日も来ますね」といって別れた。


「また明日」といい続けて、ついに2週間が経った。

 学校を休む理由も”体調不良”だけでは、そろそろ厳しい。

 おそらく、疑われている。
 私が家にいない時間に、学校から電話がかかるのも時間の問題だろう。

 もう、”少しだけ”悪いことをしているとはいえない。

 たまさんに伝えなくては。
 これからは、毎日は来られないから、休みの日には必ず来るから。

 しばらくは、お話しできない。

 そう伝えなければ。

 いっそ、本当に体調不良だったら学校を休めるのに。
 そういえば、部活動で足の怪我をした子が1ヶ月学校を休んでいたな。

 部活に入っていない私が、それくらいの怪我をしようと思ったら、どうすればいいんだろう。

 え。
 私、なにを考えてる?

 歩行者用の信号が点滅して、赤に変わった。
 トラックが、大型のトラックが近づいてくるのが見える。

 少しだけ。
 少し当たるくらいなら、きっと死にはしない。

 運転手さんには悪いけど、本当に悪いのは赤信号なのに道路に出ていった私だって、調べる方法は今ならたくさんあるはず。

 ごめんなさい。

 横断歩道に向かって踏み出した足が、水たまりに入った。
 この水たまりにも、たまさんはいるのかな。

 その刹那。

 私の身体は、飛ばされた。

 大きく跳ねた水たまりの水が身体を濡らしたけれど、不思議と冷たくはなかった。
 何事もなく走り去って行くトラックの後ろ姿をぼんやりと眺めていた。

 少しして、打ち付けた臀部と僅かに擦りむいた手のひらに痛みを感じた。

「……痛っ」

 砂利の混じった傷口から血が滲んでいた。
 こんな血が出る怪我をしたのは、小学生以来だ。

 私は、不意に勢いよく跳ねた水たまりの水に”突き飛ばされて”、歩道で無様に尻もちをついていた。

 

 あの日から、雨が止まない。


 傘をさして、あの公園に向かう。

 水たまりはいつもより大きい。
 常に水面が跳ねている。

 たまさんの言葉がわからない。
 どこにいるのかもわからない。

 たまさんが、助けてくれたの?

 私は、ただ。
 たまさんと、もっと話がしたくてーー。


 梅雨があけた。

 あれから、きちんと学校に通っている。
 一度も休んでいない。

 休みの日。
 公園に行っては、話しかける。

 でも、返事はない。

 私は、普通に暮らせている。
 心置きなく会話をできる人がいない、以前の生活に戻っただけだ。

 時々、水たまりの水を掬って文字を書くようになった。

 するとある時、女の子の声が聞こえた。


 なるほど、神様の遊び心には敵わない。





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