【短編小説】 降って湧いた15万円

「もう叩き返しても、あの人にはわからないから」

 母が自分の父親、僕から見れば祖父と仲が悪いことは知っていた。
 僕は、生まれてから一度も母方の祖父に会ったことがない。

 母が会わせようとしなかった。


 大学受験の結果が出た。

 僕は第一志望の大学に、見事合格した。
 高校受験もそうだったけれど、僕は背伸びをしない。

 特別努力しなくても、今の力で合格できる学校を選んだ。

 だから、”見事”合格なんて言うのは、間違っている。

 それでも、事情を知らずに「おめでとう」と言ってくれる人はたくさんいた。
 これから、家では”お祝い会”ということで、母が作ってくれた僕の好物、肉団子ネギ鍋を食べる。

 我が家で「肉団ネギ」と呼んでいるこの鍋は、細く切った生姜を水と味醂で煮て、肉団子と薄く切ったネギを加えたものだ。

 ポン酢をつけて食べる。

 僕は鍋料理が好きだ。

 みんなでひとつの鍋を囲んで、同じものを「おいしい」と言って食べられるから。
 はじめからつぎ分けられていると、なんだかその気持ちが薄れてしまうような気がする。

 そうはいっても、今日は母と僕のふたりきり。

 いや、今日だけではない。

 もうここ数年、僕の高校入学をきっかけに家族の生活リズムが全く一致しなくなってしまったため、全員で食事をする日なんて、年に数回しかなかった。

 僕は普段、父とご飯を食べていることのほうが多い。

 母とふたりきりでご飯を食べるのは、久しぶりだ。

「ハッピーだけど、アンハッピーなニュースがあるの」

 そう言って、母が仕事部屋から持ってきた茶色の封筒には厚みがあった。

 ニュースがあると聞いて、僕が一番に思ったのは「もう大学生なのだから、私は”出資”しない。成人して独立した個体は互いに面倒を見たりしない。自分の生活は、自分でどうにかしなさい」と告げられるのではないか、ということだった。

 だから話題が、家で仕事をしているはずの母が最近外出することが増えた理由についてだとわかった時、正直、安心してしまった。

 あぁ、まだ僕の番じゃなかった、と。

 ただ、その理由が「父親が認知症になった」からで、「関わりたくないけど、世話をしなければならない」「人が暮らすような環境ではなくなっているから、私が片付けに行っている」「バカでなにも考えていないから、本当にゴミだらけ」「くだらない」「最後まで子供の人生の邪魔をする」、他にはどんな話を聞いたのだったかな。

「ご飯を食べたばかりなのに、”食べてない。ひもじぃ、ひもじぃ”って本当に言うのよ、あれ」

 物語で見るような典型的な認知症よ、と話を続ける母に、僕はどんな表情でどんな言葉をかけるのが適切なのかと、受験の時にもできるだけ負荷をかけずに過ごしてきた脳みそを引っ掻き回してみたけれど、適切な答えが出なかった。

 わかる。
 想像はできる。

 物語で見たことがある。
 似たような状況にいる歳の近い子から話を聞いたことはある。

 だけど、僕は。
 実際のところ、何も知らない。

 僕が何をいっても「あんたになにがわかるの?」と返すのは母ではなく、僕自身の声だ。

 何も知らないやつに、そんなことを言われたくない。

「送ってくるなと言ったのに、ずっと送ってきてたの。叩き返すつもりだったけど、もう返しても、あの人にはわからないから」

 そう言って差し出された封筒の中身は、祖父から僕へのお年玉だった。

「金は、金。君が有意義に使いなさい」

 封筒の中には、色とりどりのお年玉袋が入っていた。
 なかには手紙が添えられているものもあったけれど、「金だけ取っておけばいい」と母が引き上げてしまい、手元にはお金だけが残った。

 15万。

 僕にとっては大金だ。
 約7ヶ月分のバイト代が、降って湧いた。

「”ねこばば”してて、悪かったわね」

 お年玉をねこばばする親は、それを子供に返しはしない。
 だから、母はねこばばしていない。

 顔も見たことがない人からのお年玉。

 僕だって必要なものはある。
 お金をもらえるのは、嬉しい。

 そのはずなのに、僕は今。
 どんな感情でいるのが正しいのか、わからない。

 このお金は、本当に僕が好きに使っていいの?

「君が、幸せになるように使えばいいよ」

 僕の幸せ?


 僕は、お金も時間もいらない。

 もう、考えたくない。


 どうして母は、「期待はずれの父親」「愛情なんてない」「関わりたくない」といいながら、祖父の面倒を見るのだろうか。

 どうして僕は、「なにかできることは。僕にできることはないか」と母にいえないのか。

 どうして母は、この話を父にしないのだろうか。


 僕は、なにも感じたくない。
 なにか、自分に起こっている不都合なことを誰かのせいにするのは、疲れた。

 本当はそれが誰のせいかなんて、考えるだけ無駄なのだ。

 生まれてこなければよかった。

 そうすれば、なにも感じることはなかった。

 それでも、生まれてきたからには、生きているだけで日々なにかを感じてしまう心を僕は文章にすることにした。

 嘘と本当を混ぜられる物語では、僕の都合のいいように現実を捻じ曲げられる。

 ネタになるから、と他人の心のなかにまで、土足で入り込むことを自分に許していた。

 当事者意識がなければ、なにも感じていないと自分に言い聞かせていられる状態なら、平気でそんなことができた。

「今、どんな気持ち?」と訊いて、相手が返してくる言葉を期待していた。


 今、僕の中にある感情は……?


 僕は、この問いの答えを持たない。
 だからずっと、人に訊いて生きてきた。

 だのに、どうして。
 どうして、こんなにも苦しいのだろう。

 きっと、いつもより肉団子の量が多かったから胸焼けしただけだ。
 きっと、働かずに得た大金の使い道が決まらないからだ。

 僕は、なにも感じていない。

 大丈夫。

 僕は、まだーー。





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