#242 SNSのもやもや。
こんにちは、鏑木澪です。
結局、私もこの話をするんだなと思って、自分にがっかりするのだけど、「この話題を見ない日はないのではないか」というくらいネットをぼんやり眺めていても視界に入ってくる”LGBTQ+”の話を少しだけしようと思います。
私が「この話をしたくないな」と思うのは、いちいちそれを話題にすること自体が不自然とでも言えばいいのか、どうしたって生物学的な性別からは逃れられないところがあるのに、社会的な分類でいちいち人の心を踏み躙るとわかっていることを殊更に話さなくてもいいのではないかと思うところがあるからです。
もちろん、言いたいことがある、本人が自分の言いたいことを言うのは良いと思うのだけど、当事者でもない人が「この人がこうだから、こうしてあげるべきだ」とか、とってつけたように「多様性が……」とか、
余計なお世話だわ
そう思っている自分がいます。
だって、本当に助けを求めている人には全く手を差し伸べないのに、わかりやすい、簡単なところにだけ出張って行って、何かを”してあげている”気になっている人があまりにも多いと感じられるから。
これは、LGBTQ+に限った話ではないけれど。
いや、もうこの手の違和感、何?
ネットで、いろいろな情報を見ることができるのに、それを整理できる脳みそを持っていない私が悪いのだろうけれど、どこまでも靄がかかっているような、出口の見えない、意味のわからない(私には理解できない)ことで喧嘩をしている人を見ると、
ただただ、悲しくなる。
私もね、他人から見たら「そんなのどうでもいいでしょ」ってことにずっと囚われて、「つらい」「くるしい」「しにたい」とか言ってる類の人間ではあるから、
あの人たちは、声が大きくていいな
そう思っている節もあります。
静かにしてほしい気持ちと、私もあれだけ声を張り上げられたらどれだけいいかと、疎ましく思っている自分と羨ましく思っている自分が同時にいます。
自分がSNSを使うようになるまで、「知りたくない(見たくない、聞きたくない)ものは、遠ざけておけばいいじゃないか。それができるのがネットだろう」と思っていたのだけど、
避けているつもりでも、視界に入ってくる
そして、一定の量を超えるとそれが無視できなくなる
(今日、私がこの記事を書いてしまったように)
そういうことがあると思います。
ネットの誹謗中傷なんかも、私は信じられないような数の銃口から攻撃を受けた経験がないから言えるのだろうけれど、
「そういうことをする人がいるのは、わかっているのだから、無視すればいいのに、どうして、そんなに真に受けてしまうのだろう」
昔は、そう思っていました。
私がSNSを使うようになったのは、大学生になってからです。
それまで、「ネットは怖いところだ」と聞かされていたから、「基本的に悪い人しかいないところだ」と思って使い始めました。
今のところ、私に声を掛けてくださる方々は親切で優しいことが多いから、「なんて温かいんだろう」と感謝するような出来事に恵まれて、「現実で会う人より余程、人間味がある」なんて感じることも多々ありました。
そんな中で、「やっぱりネットは怖いところなんだ」と唯一感じた出来事があったのが、LGBTQ+関連の話題に足を踏み入れてしまった時でした。
詳細は書きませんが、初めて「SNSで主張をすると知らないところから撃たれて死ぬことがあるのだ」と感じました。
本当に、全然知らない人がいきなりとんでもない罵声を浴びせて去っていきます。
私もそれを気にしなければいいのだけど、たかが片手の指に収まる程度の声で、信じられないほど落ち込みました。
全然知らない人でも肯定的に反応してくださった方もいらしたし、私が落ち込んでいるのを見て「私も同じような考えです。間違っていないと思いますよ」と伝えてくださったFFさんもいらしたのに、
片手で収まる罵声のほうが、よほど強く聞こえて、堪えました。
SNSの付き合いは、基本的に限られた情報のやり取りであるし、文字だけでは、ちょっとした言葉選びで間違った伝わり方をして、そんなつもりはなかったのに相手を傷つけてしまうこともあるし、相手の表情が見えないからどれくらい傷つけてしまったのかもわからなくて、
距離感がつかめないまま
土足で踏み込んでくる人に対して
どう接していいのか、わからない
私自身、誰かの大切なところに気づかず
土足で踏み込んでやしないかと、常に怯えている
Twitterで呟く量を減らして、noteに長い文章を書くようになった理由もこれで、基本的に”長文を読むのは面倒くさい行為”だと私は思っているから、それをしても私の話していることに興味を持ってくれる人は、
丁寧に私と接しようとしてくれているのではないか?
そう思っています。
(押し付ける気はないです! 気楽に読んでくださいね!)
それにね、そんなに怖くて怯えているくらいならSNSを使わなければ良いだけの話であるし、「そうなるに決まっているから使うな」といわれて20年近く生きてきたことで、私は、”SNSを用いた嫌がらせ”を避けることはできたけれど、
他にもあるじゃない?
SNSを使っていなくても、嫌なことって
使っていないせいで嫌な目に遭ったこともたくさんあったし
あぁ゛、もう難しい。
「もう、人を避けて暮らすしかないわ」と思っているのだけど、私の場合は、それが平気ではないです。
やっぱり、寂しいです。
だから、ネットの海に瓶に詰めた自分を放り投げては、「誰か拾ってくれないかな」と期待してしまっています。
ひとりでもやってこれたし
ひとりでもやっていける
やっていかなければならない
でも、心を許せる人がいたらどんなにいいかと、考えないわけではないのです。
話が色々なところに行きましたが、”心を許せる人”って、私にとっては「そういう人」であって、その他、世間的にどんな分類や定義をされる人であっても、
どうでもいい、です。
ただ、客観的にその人のことを他人に説明する時に便利だから、色々な言葉をその人に当てはめようとするかもしれないけれど、きっと、どんな言葉を組み合わせても、その人の全てを説明するには足りないと思います。
だからもう、どうでもいいじゃない?
社会的定義や文化的定義などに、無理に当てはめようとしなくても、結局、
「この人は私にとって、大切な人か、そうでないか」
それだけの話だと思うの、2023年4月26日時点の私としては。
そして、”そうでない人”の大半は私が知らない人たちであると思うのだけど、「大切にしたいと思えない人」も含まれています。その人たちに時間を使っても、互い良いことがないから、私はできるだけその人たちに時間を使わないで生きていきたいです。
例えば、「私(鏑木)に対して悪口を言うのが楽しくて、気持ちが良くてしかたがない人」がいたとして、私に非がない場合、私はそれに対して何もしないのが正解であると今は思っているし、もし、私に悪口を言うことでその人の気持ちが晴れるなら、それでいいと思います。
嫌味とかではなく、本当に。
私だって、誰かの悪口を言うことはあります。
(道徳や法律を犯すような特別悪いことをしていない人に対しても、モヤっとした感情が湧いてしまうことがあります)
せいぜい家族に聞いてもらうくらいで、基本的には誰もいないところでブツブツ言うだけ、本人に直接言うことなんて滅多にないし、多くの人がいるところではいわないようにしたいけれど、溢れてしまうこともあると思います。
ずっと善人でいるなんて、私には無理です。
たまたま私に対しては、そういう接し方をする人でも、誰かの前では良い人かもしれないし。
悪意の権化みたいな人も稀にいるけれど、多くの場合はそうでないと私は思っています。
なんにしろ、「あなたはこうあるべきです」なんて、私は言われたくないし、言われて私自身、”そうありたい”と思ったからってどうにもならないこともあるから、
もう、放っておいてくれ
(お互い関わらないようにしよう)
こうするしかないことも、あると、私は思います。
わかりあうことなんてないから、伝える努力は場合によってはしたほうがいいし、理解する努力もしたほうがいいけれど、絶対にわからないことはあるので、
どうしても無理だと思ったら、離れて暮らすしかない。
それができないから、争ってしまうのだろうけれど。
誰かにとって大切なものかもしれないから、私もそれを大切にするなんてのは、できるだけそうしたいけれど、全てを大切にするなんて不可能だから、可能な限り人のものも壊さないように注意しつつ自分の大切なものを守っていくしかないと思うの。
人のものを壊しても、自分の大切なものは守れない。
何が大切だったのか、よく思い出して。
自分の大切なものが危機的状況にある時ほど、これを忘れてしまって、周りにあるものを傷つけてしまいます。
私は、そうでした。
全部が、敵に見えるんだよね。
助けてくれる人がいないと感じると特に。
もう、考えるだけ無駄なんだわ。
絶対、おかしい方向に行ってしまうから。
おまけに、こういう状態にあると良くない人を呼び寄せやすい環境が生まれてしまうから、どんどん良くない状況に陥って、抜け出せなくなります。
私の場合は、そのタイミングで物理的に社会から切り離されたから抜け出すことができて、ネットに繋がりを求めてみたら、私のことを何も知らない人に助けてもらえて、
運が良かったです。
もう、どうすればいいんだろうね
少し前に、話の流れで「AIが100人のさくらで私を応援してくれたとして、その事実を知らなければ、普通に喜ぶと思うんだよね」と、そんな言葉が自分の口を衝いて出てきたことに驚きました。
100人の人間が全員、私を非難することしかいわないなら
AIの演じる100人が、私を煽ててくれる世界のほうがいい
おそらく、今の私はそう思っています。
現実で血の通っていない言葉や態度を浴びた経験があるから、ネットでもらった温かい言葉が時々「本物なのかな?」と思ってしまうことがあるし、それを区別することに意味があると思えません。
ダメだ、話が大きくなりすぎました。
「その事実を知らなければ」と言っているように、本当は私だって人間がいいと思っているのだけど、「温かい言葉をくれる存在」が必ずしも人間じゃなくてもいいとも思っています。
でも、結局をそれを作るのは人間なんだよなぁ。
……話が脱線しすぎて、訳がわからなくなってきたので、このあたりでやめます。
(5000字も見えてきているし、喋りすぎだ)
とにかく!ッ
せっかく離れたところにいる人とも話せるようになったんだから、楽しい話とか、元気が出るような話とか、優しい気持ちになれる話を積極的にできたらいいなと、私は思います。
ではでは〜
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?