家出もの
たまたま、半世紀ほど前の家出ものの本を続けて読んだ。
・洞窟おじさん(加村一馬)
・旅の重さ(素九鬼子)
・少女ミーシャの旅(ミーシャ・デフォンスカ)
このうち「旅の重さ」はフィクションであるが妙にリアルで生々しい話。逆に他のふたつはフィクションかと思うほど壮絶な体験談である。
いずれも主人公はおとなではない(おとなだと家出というより失踪とか蒸発になるのかな。家出の反対は出家か・・・)
「洞窟おじさん」は、1960年群馬県で両親の虐待から逃れ、山中の洞窟でヘビやネズミを食べるなどサバイバル生活をする13歳の少年の手記。「見つかったら連れ戻される」ことへの恐怖から人目を避けて山の中に隠れ、そのままあちこちを移動しながら「おじさん」になるまで40年あまりも放浪する。日本の高度成長期やバブルとも無縁のまま社会復帰した時には水洗トイレもエレベーターも知らなかったという。
「旅の重さ」は、1964年、愛媛県新居浜でちょっとダメっぽい母親と暮らす16歳の女子高生が突然海づたいに四国を一周することを思い立ち家を出たところから始まる。野宿をしたり旅芸人の一座に潜り込んだりし、そのまま途中で知り合った中年の男と暮らすまでの日々が母への手紙の形で綴られている。奔放とか早熟とか多感とかいう言葉では言い表せない主人公の視点が独特。
「少女ミーシャの旅」は、1941年戦火のヨーロッパ。わずか7歳のユダヤ人の少女が、自分を密告しようとしたベルギーの養母の家を出てドイツ〜ポーランド〜ウクライナなどを経て再びベルギーに戻るまでの約4年、5000キロを旅した仰天の回想録。距離も旅程もすごいが常にナチスへの恐怖と隣り合わせ、見つかること=死を意味するハードな旅。実の両親はナチスに連行されていたため再会することを目標に漠然と東(ベルギーからドイツの方向)に向かって歩き続けるうち、各地で収容所や戦禍の厳しい実態を目の当たりにする。
状況は全く違うが3人ともまず計画的に家を出ていたことに感心させられる。わたしも子どものころ何度か家出したいと思ったが、ただうろうろと近所1周してはうなだれて帰るしかなかった。今さらながら、家出にはまず冷静な計画性が必要だったのだ。
まず彼らは周到な持ち物と服装を準備していた。
洞窟おじさんは、干し芋、醤油と塩、マッチ、鉈、ナイフとなんと砥ぎ石までを学生カバンに詰め込み、Yシャツの上に学生服とジャンパーを重ねて出発。
ミーシャは、ナップザックにリンゴを詰めれるだけ詰め、穴を開けたパンに撚り糸を通したものを首から掛け、冬を見越して暖かいものを着れるだけ重ね着した。そのポケットにはやはりナイフとそしてコンパスまで入れている。
女子高生は、リュックサックに合羽、ローソクなど。そして母の財布からちゃっかり9000円(当時としてはまあまあの金額)を持ち出した。
しかし当然みんな数日のうちに食料は底をつきそこからが正念場。家出はとにかく飢えとの戦いだ。女子高生はたまに集落でパン、マーガリンなど買うことができたが山道では栄養失調と熱射病で行き倒れ寸前にもなっている。洞窟おじさんは何箇所かで腰を据えて隠れ家を作って暮らしていたため、罠をしかけて獣をとって調理するなど、ものすごく極端なアウトドア生活といえないこともない。ミーシャは森で自生の植物を食べる他は専ら民家に忍び込んで食料や身の回りのものを盗んだ。
計画性の次に大事なのは体力。暑さ、寒さ、雨や雪。泥水を飲む、草の根、生肉や腐ったものでも食べる、下痢や風邪など調子が悪くなっても自力で治す。
それからもちろん孤独との戦いでもある。精神的にもタフでなければ生きていけない。寝ても覚めても基本一人。
洞窟おじさんは一度全てに絶望して富士の樹海に死に場所を求めたこともあった。しかしそこで他の自殺者の死体を発見することで死を思いとどまる。
女子高生はもともと周期的な鬱症状があり旅の途中でもそれに襲われるが歩き続けることで乗り越えてゆく。
ミーシャの場合はさらに過酷だった。自分以外を信じずどこに行っても啞を装い決して人に心を許さなかった。そんな中でミーシャが唯一心を慰められたのがオオカミたちとの交流で、一緒にじゃれあったり眠ったり、自分が略奪してきた食料と彼らの狩りのおこぼれを分け合って暮らした時期もあった。
動物といえば、洞窟おじさんも最初の数年は、家から自分を追いかけてきた飼い犬のシロと暮らした。高熱で死にかけた時もシロの存在のおかげで生き延びることができたと言う。その後タヌキの一家とも仲良くなるがそれ以外の動物は全部食料だった。やがて釣り人や親切な老夫婦と知り合って徐々に人間不信を克服して社会復帰を果たして行く。
女子高生は、道中で遍路や漁師や村人、旅芸人たちなどさまざまな人間と出会い交流する。浅く深く人と関わっていながらも、どこまでもどうしようもなく孤独で彼女の強さがそれと表裏一体であることを感じる。
このように3人の生き様を考察していくと、家出にはほかにも運や勘、そして何より意思の強さが必要なことがわかる。
家出はたいへんだ。止むに止まれぬ状況の上でも、家出はやっぱりとてもとても厳しい。
今、わたしは幾度か家出を妄想していた子どものころの自分に言ってやりたい。「家出ナメんなよ、あんた、無理」と。