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楚人冠

楚人冠ヨーグルト、以前「秘密のケンミンSHOW」で取り上げられて一時県内でも店頭から姿を消していました。

この楚人冠ヨーグルトの販売元である、鏡石町の岩瀬牧場を本日訪問してきましたわけです。
「県独自の緊急事態宣言が出されているのに非常識なッ」と思われるかもしれませんが、まあ屋外ですし、GWはあえて外したので、それほど人出は多くないだろうという読んで、訪問してきたわけです。


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こんな妊婦(いや、妊牛?お腹に子供がいるそうです💗)さんに出会ったり。

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トカラヤギに出会えたり。

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羊がもぐもぐと口を動かしていたりしますが、私の本来の目的は「花」でした。
ですが、桜はとっくに散っており、名物?の芍薬はちらほらと咲き始めたばかり。

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うーん、これでは記事にするには少々材料不足。
なので、「岩瀬牧場歴史資料館」に入ってみることにしました。

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昭和初期に建てられたというこちらの建物ですが、何度か訪れている割には入った記憶がとんとありません。
まあ、小学生の興味を引くような要素は少ないかも。
ですが、ここで以前から謎だった「楚人冠」の正体が、思いがけず判明しました。

何と、唱歌「牧場の朝」の、作詞者だそうです!

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杉村楚人冠は、本名を「廉太郎」と言い、明治5年に和歌山県で生まれました。明治36年に東京朝日新聞に入社し、二葉亭四迷や夏目漱石・石川啄木とも親交があったそうです。

明治43年に、当時の岩瀬牧場専務取締役だった永田恒三郎氏に招かれて岩瀬牧場を訪問した際の様子を、東京朝日新聞の紙上で「牧場の一夜」というタイトルで5日間に渡って連載されたとのこと。

少しボリュームがありますが、原文を元に現代仮名遣いに直したものを、引用してみましょう。
※資料館の展示物より、転記しています。


奥州街道
 岩代の國は矢吹停車場といふので汽車を降りると、牧場から差し廻された二頭立ての馬車が待つてゐる。二頭立ての馬車などいつても、じつのところは毎日牧舎から牛乳を運び出す荷馬車なので幌も何もない吹き曝しの奴だ。動き出すと、北國の夕風見にしみじみと寒い。
 生まれてより僕は未だ牧場のどんなものであるかを見たことがない。西洋の讀本を讀むようになって、牧場といふ言葉に出会う毎に、青々と下草の生えた廣い野原で、牛や羊が長閑に遊び戯れている處かとも思った。
 僕はかねて知り合いの此の岩瀬の牧場へ、よりによって寒い最中に一人で来て見ようと考経た。それと聞いて永田さんが、案内方々用もあるから、おれも一所に行かうかと云ふことになった。
  街道の両側は雑木の寂しく並んだ野原ばかりで、東京から僅か半日で来られるやうな處に、よくこんな拓けぬ處があると思った。馬車に乗ってここを通ると、ちょっとイギリスの田舎道へ出た気がする。「此の辺がもう牧場の中です」と、永田さんが行った。
岩瀬牧場の昔
  いよいよ牧場の中だ。道幅はかなり広く取ってあるが、何分一面の草で、僅かに左側に馬車を通ずるだけの道が残ってあるきり。それも雪解けのどろどろ道とて足の踏み入れ処もない。行けども行けどもこんな道ばかり。
 行いて行きつく所を知らぬも道理、牧場の総面積六百五十町歩ある。之を坪に引き直して百九十五萬坪といへば、如何さま少しわかる。
 明治十何年という頃、政府は九州邊の貧乏士族を猪苗代の近所に移住させて安積農場なるものを開いたことがある。ところが、日本に初めて試みた大農制のこととて、何も万事が思ったやうに旨く行かない。此に於いて、時の宮内卿であった故伊藤公爵が、何でも之は政府で同じ経営を試みて模範を示すに限るとあって、此の岩瀬の御料地に岩瀬農場なるものを開いた。
 然るにこの農場もとんと旨く行かぬ。若しだれか今までの事業を継続し得るような然るべき借り手があるのなら何時でも貸そうという事になった。之を聞き込んで、よしそんならおれが引き受けようと出てきたのは、今の司法大臣岡部子爵である。かくて明治二十三年から十七年間もっぱら岡部家の経営する所となった。
牧場の暁
 じゃんじゃんじゃんと、半鐘の音が霜夜に冴えて、如何にも氣たゝましく聞こえる。外面はまだ暗い。
 此の鐘で、いよいよ牧夫耕夫が勢揃へして、牧場の仕事を始めるのである。霜白き暁の空、そうそうたる半鐘の音に連れて、人馬のはせ参じる様、洗浄もかくやと勇まし気な、牧場を生優しい、風流らしいものと心得て来た僕は、少なからず面食らった。
 やがて、棟梁らしいのが夫々仕事と持ち場の割当てを言ひ渡す。持場と言っても色々ある。林を造る、木を樵る、垣を結ふ、小屋を建てる、林を耕す、草を刈る、馬を追ふ、牛を養う。牧場の内に生を送るものだけが、三百人に餘ると云ふ。
牛いろいろ
 牛にもいろいろある。講釈めくが其の色々ある中で、乳牛として最も賞用さるる物は、オランダのホルスタイン種。「これが当牧場の財産です」と山本君は順ホルスタイン種の牛を見渡しながら言った。此奴をオランダから運ぶに何もかもこめては、一頭二千餘園に登る。こんなのがごろごろしているのだから、成程一財産たるに相違ない。あんなのが一頭で一寸した家が一軒立つのだなと思ふと、すこし馬鹿にされたやうな気にもなる。
 種牛のところに行く。途方もない大きいのが列んでいる。ここにある奴なんどは、目方が二百貫もあって、いずれもオランダから連れて来たものださうだ。
 背のひょろ長いサイロや、煉乳の製造所や、牧夫の共同浴場や、氷を取る池や、日本に二つしかないといふ脱粰器械や、玉蜀黍の貯蔵所や、桑畑や、桜桃の園なんどを順々に見て廻った。耕地だけで百三十町歩餘るくらいだから、どこまで行っても際涯を知らない。

特に、3番目の「牧場の暁」は、当時の中学(現在の高校)の教科書にも掲載されたそうです。
さらに、これが歌詞になると、次のような情景に。

ただ一面に立ちこめた
牧場の朝の霧の海
ポプラ並木のうっすりと
黒い底から 勇ましく
鐘が鳴る鳴る かんかんと

もう起き出した小舎小舎の
あたりに高い人の声
霧に包まれ あちこちに
動く羊の幾群の
鈴が鳴る鳴る りんりんと

今さし昇る日の影に
夢からさめた森や山
あかい光に染められた
遠い野末に 牧童の
笛が鳴る鳴る ぴいぴいと

楚人冠は特に擬音語(今で言うオノマトペ)に強いこだわりを持っていたそうで、特に「牧場の朝」の歌詞にはそれが顕著に現れていますね。

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明治時代の新聞に掲載されたエッセイですが、情景が非常に鮮やかだな~と、110年経った今でも思います。
きっと、当時も素晴らしい記事を書いていたのでしょう。

岩瀬牧場は多分また訪れるような気もしますが、楚人冠について知ったのが、本日最大の収穫でした。

追記:
「楚人冠」の雅由来ですが、司馬遷の「史記」の「項羽本紀」の一説に由来するそうです。

「人の言はく、『楚人は沐猴(もっこう)にして冠するのみ』と。果たして然り」
『項羽は冠をかぶった猿に過ぎない』と言う者がいるが、その通りだな」
の意。
引用元:Wikipeddia

アメリカ公使館に勤めていたことがあり、その際に「シルクハットが似合わない」ということから、雅号の由来にしたようです。

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