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著作権法上の二次的著作物の扱い

先シーズンのドラマの影響ではありませんが、最近、著作権が気になって仕方がありません。
自分自身が著作権侵害をされたこともありますし、noteのバナー用のイラスト作成をお願いするに当たって、どこまでイラスト制作者の権利を守れるか、という対策を講じるためでもあります。

さて、私が実際に「著作権侵害」として削除要請に動いたものに、「朗読」があります。
そのときの経緯は省くとして、そもそも朗読作品が果たして「著作物」と呼べるのかどうか?
この点も、実は引っかかっていた部分です。

私も、クリエイターの端くれですから、誰かとコラボするときには、できるだけ相手方の権利を尊重するようにはしています。ですが、著作権法から見た場合、どうなのか。

そこで、「著作権判例百選」を手がかりに、調べてみました。

さすが判例百選、さまざまな「著作物を巡る争訟」が掲載されていますが、私の目を特に引いたのは、「4.二次的著作物の創作性」(豆腐屋事件)です。


豆腐屋事件

事件の概要は、亡Aが制作した絵画(X絵画)について、亡AIの相続人であるX(原告・控訴人)がY(被告・被控訴人)に対し、Yが製造販売した豆腐のパッケージに使用されたX絵画が、Xに無断で複製しようされているとして、X絵画の著作権侵害に基づく損害賠償を請求した事件です。

ポイント

ここで押さえておきたいのが、このX絵画は、実は江戸時代に制作された浮世絵の模写作品だということ。
江戸時代はさすがに著作権保護の対象外(パブリックドメイン扱い)なので、本来ならば誰が使おうと、自由です。

こちらが、元となった江戸時代の浮世絵です。

画像出典:裁判所ウエブシステム判例探索システム①判決別紙1

これに対し、亡Aが描いたとされるX絵画がこちら。


これは、一目で「模写」だとわかるレベルですよね。
さて、この「模写」の作品について、独自の「著作権」が認められるかどうか。それが争点となりました。

X(原作者の子=原告)の主張

原作者の子、つまり現段階での著作権者とされるXの主張は、次のようなものです。

1.対象となる原画を認識する過程において、模写制作の個性、好み、洞察力が反映される
2.認識された原画を再現する過程においても、模写制作者の個性、好み、洞察力などが反省されるから、模写作品がいかに原画に酷似していたとしても、模写制作者による新たな創作性の付与が認められる

要するに、「たとえ模写であっても、その技法や表現の仕方、好みなどが作品に現れるのだから、独自の作品として認められるのが自然である」というのが、原告側の主張です。
その理論の派生としての模写物を豆腐のパッケージとして流通させたYは著作権侵害をしているから、損害賠償を支払え、という理論。
さらに、控訴審において、Xはつぎのような予備的主張もしています。

1.モチーフと表現手法・手段とは表裏一体の関係にある
2.表現方法の違いがそれぞれの絵画のモチーフの違いに由来するものであれば、その違いがたとえ細部におけるわずかなものであっても、模写製作者の精神的創作行為が発揮されたものとして、創作性が認められる

判決

模写作品において、なお原画における創作的表現のみが再現されているのみに過ぎない場合は、当該模写作品については、原画とは別個の著作物として、これを著作権法上保護すべき理由はない。
(原判決)

絵画のモチーフの違いに由来する表現方法が『精神的創作行為』の発揮された場面と呼ばれるにふさわしいものであるとしても、その結果としての模写作品に新たな創作的表現が付与されたと求めることができなければ、著作権性を有するということはできない
(Xの予備的主張に対して)

少しわかりにくいですが、その本質が「模写」の範囲に過ぎず、新たなオリジナリティが別途認められるものでなければ、模写物の著作権を主張することは出来ないということです。
訴えられたYは、いわば模写物を利用していたに過ぎません。従って、問題の絵を使用した豆腐のパッケージはそのまま利用できることになります。

二次的著作物の定義

ここで、二次的著作物とは何なのか。それについて語ってみたいと思います。
判例百選の概要によると、次のような要件を満たした場合に初めて「二次的著作物」として、著作権が認められます。
もっとも二次的著作物の著作権の及ぶ範囲は、新たな創作パートのみであり、原作にまで及ぶものではありません

①具体的表現において、修正、増減、変更などが加えられていること
②新たに思想または感情を創作的に表現したこと
③それにより既存の著作物の表現上の本質的な特徴を直接体感することのできる別の著作物を創作することが必要である

「天空の城ラピュタ」に見るノベライズの事例

これは、たとえば映画やアニメのノベライズを考えた場合がわかりやすいのではないでしょうか。

私も何冊かその手の本を持っていますが、一例として、宮崎駿監督の「天空の城ラピュタ」を取り上げてみます。

この作品(アニメージュ文庫より発刊。文/亀岡修氏)の場合、アニメでは出てこない、ムスカの独白や内心を語る場面、パズーとシータがそれぞれの故郷に帰った後日談などが出てきます。
この小説の場合、上記の①~③を全て満たしていると言えるでしょう。

つまり、「二次的著作物」として著作権を主張するには、そこまで創意工夫をしなければ、著作権を認められないということです。

表現手段を変えた二次的著作物について

現在、新作の小説(鬼と天狗)noteでの発表用に、バナーのイラスト制作をお願いしています。先日ラフ案が上がってきて、一人にやけながらラフ案を眺めては癒やされているのですが、今回の件は、私も非常に勉強になりました。

私がイラストの制作をお願いするのはこれが初めてで、打ち合わせの段階では、相手方(T様とします)がイメージを想起しやすいように、次のような資料をお渡ししました。

• 作品全体のプロット。まだざっくりとしたものですが、マインドマップを利用して作ったもののPDFファイル。
• 小説の最初の3話分の下書き

今回は、小説とイラストということで、創作ジャンルも大きく異なるのですが、それでも、イラストが「ささっと書ける」ようなものではない、というのは、T様とのやりとりを通じてよくわかります。また、イメージが想起されると言っても、一枚のカットにイラスト担当者の方のイメージが大きく反映されますから、これは紛れもなく「二次的著作物」。イラスト単独でも、著作権を認められると思います。

また、T様はご自身でも小説を書かれる方なのですが、その作品について、別の方(Aさん)イラストを描いていらっしゃるのをお見かけしました。
このときに、AさんがT様に「イラストを公表してよいか」という許可を頂いていたのが、印象的でした。
私自身は、基本的にはイラストの世界はノータッチ。それでもジャンルを超えて、Aさんの行動は、やはり、原作者であるT様へのリスペクトがあっての行為だと感じられたのです。

さらに、私自身もある写真の掲載許可を求められるなど、私の周りは著作権を大切にされる方が多い印象があります。
恐らく、noteの外ではそれが当たり前の行為なのでしょう。ですが、noteであまりにも「盗作」「ネタパクリ」(法律用語風に言えばアイデアの剽窃)が跋扈し、少しばかり疑心暗鬼になっていたのも、また事実です。

朗読作品に二次的著作物としての著作権はあるか

さて、朗読の場合についてです。これについては、以前に伊香保町との争訟において、朗読作品の著作権をめぐる判決を紹介したことがありますが、さらにもう少し考察してみました。

判決文の要旨において、却下判決となった理由は明確ではありません。流れからすると、原告の作品はあくまでも「業務の一環」として行ったものであるから、著作権は伊香保町が有する、とも読めます。それに加えて、もう一つ、「朗読」の持つ性質上、著作権が認められなかった可能性が考えられるかもしれません。

そもそも朗読は、何らかの作品があって、それを声に出して読み上げる行為です。その上での技法として、抑揚の付け方や感情の込め方、エフェクトの付け方などでは、確かに読み手の個性が出るのでしょう。

ですが、本質的に、原作そのものの内容が改変・修正が行われるわけではないのですよね。
(読み手独自の文章が入れば、その部分については著作権が成立します)
その性質に加えて、noteなどの公衆媒体でアップロードする場合、先にサーバや読み手のPCなどに、朗読データが蓄積されます。これは、形態こそ「音声ファイル」ですが、法律上は「複製」扱いとみなされます。

先の「豆腐屋事件」の理論に従えば、原則として、朗読作品は複製作品とみなされ、「二次的著作物」としての著作権を認められることはないのではないか、というのが、私の見解です。
もちろん、文字テキストファイルから音声ファイルにすることで広く情報を伝播し、楽しめるメリットはありますし、その価値は大きい。ですが、単独で著作権を主張するのは、原作者・朗読者が同一人物の場合か、原作がパブリックドメイン扱いになっているなど、かなり特殊なケースに限られるのではないでしょうか。

二次的著作物の権利侵害

それにしても、どうしてこうもやすやすと「二次的著作物」による権利侵害が起きるのか。
これは、著作権が「知的財産権」の一つなのだという事実について、認識が甘いクリエイターが多すぎるからではないでしょうか。
ちなみに知的財産権を簡単に分類すると、次のような表になります。

知的財産権は知的財産に対する私的財産であり、排他的独占権を有します。二次的著作物についてあまりにも手軽・気軽に考える人が多い印象がありますが、著作権は市場経済や市場競争にも深く関わるものであり、会計学上でも、れっきとした資産として認められています。

法律論からはやや離れますが、著作権については、法定耐用年数もなく(強いて言えば、パブリックドメインの制度くらい)、他人の著作物を利用する場合、著作権使用料などの勘定科目をつけて処理するのが、会計学上の考えです。つまり、それくらい大切なものだということです。
(会計学上、処理できないものについては「仕訳なし」として処理します)

まあ、全ての作品に無理に市場価値をつけることはないのでしょう。ですが、売れっ子の作家などでは、文字通り作家生命にも関わるでしょうし、安易に他人の作品を利用しようというのは、やはり考えものではないでしょうか。

まとめ

根本的には、私は二次的著作物についてはあまりいいイメージがありません。ですが、その一方で、原作に基づくイメージを膨らませた素晴らしい作品やオマージュ作品があるのも理解していますし、創造の原動力となるのも肯けるところです。
せめて、原作者へのリスペクトやオマージュは忘れずに、その上で自分なりのオリジナリティを出すのが、クリエイターの腕の見せ所ではないでしょうか。

ある場所で、「二次作品に利用されるのが嫌なら、あらかじめそう書いておけ」。そんな暴論を目にしました。
この暴論を吐いた人は、自分の作品に対しても同じようなことが言えるでしょうか。言えるのだとしたら、その人が好きなのは、自分の作品やキャラクターそのものではなく、単に「名前が売れる自分」が好きなだけなのかもしれません。それでも、そう考える人がいるというのが、私にはショックでした。

クリエイター界隈において、この手合は珍しくありません。ですが、せめて自分がお付き合いする人は、自分の作品も相手の作品も大切にできる、そんな人でありたいものです。

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