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コラム:「廃帝」たちの生きた中国史を少しだけご紹介

魏晋南北朝時代 劉宋(1)

 歴史上多くの「廃帝」が擁立された時代が『五胡(ごこ)十六国時代』『魏晋(ぎしん)南北朝時代』と呼ばれる、中国史全体で見ても空前の混乱期です。

 三国時代を終わらせて統一を成し遂げた司馬氏の『(しん)』。
 この国が内乱により崩壊して以来、楊堅の『(ずい)』が中国を統一するまで実に三百年以上もの間、大小さまざまな国家ができては滅ぼされたのですから凄まじい群雄割拠の時代だったといえると思います。

 五胡十六国の『五胡』というのは5つの異民族という意味です。
 『漢』もモンゴル高原あたりを本拠地とする『匈奴(きょうど)』に悩まされたことで有名ですが、この時代は『鮮卑(せんぴ)』をはじめ、さまざまな異民族に中国が侵略されていた時代ともいえます。

 中国北部(華北)はほぼ異民族の手に落ちていたと考えていただいてほぼ間違いありません。大雑把に言えば、その異民族が内部争いで分裂を繰り返していたのが『五胡十六国時代』ということになろうかと思います。

 やがて鮮卑族の拓跋(たくばつ)氏が建てた『(ぎ)』(三国時代などの『魏』と区別するため『北魏』と呼ばれます)が華北を統一。
 南部の『東晋(とうしん)』と中国を二分する『魏晋南北朝時代』の幕開けです。


 今回の話の中心は、このような経緯をたどった北部――ではなく、南部を支配していた、いわゆる「南朝」側となります。

 『晋』滅亡後、生き残った王族が比較的平穏だった南部に逃れて立て直したのが『東晋』です(例によって学術的な区別でそう呼ばれているにすぎず正式な国名は単に『晋』)。

 その『東晋』で、北部の国家をいくつも滅ぼすなど、多くの武功を立ててのし上がった劉裕(りゅう・ゆう)が新たに建てた国が、今回お話させていただく『(そう)』王朝となります。

 『』といえば、世界史で絶対に出る、趙匡胤(ちょう・きょういん)が建てた統一国家がまず連想されますので、こちらは『劉宋』と呼ばれます。
 こっちの『宋』は高校の世界史ではまあまず習わないでしょう。
 よほどの進学校でないと触れられることすらないのでは?

 ともかく先に進みましょう。
 劉裕は前例にならって『禅譲(ぜんじょう)』の形を取って『東晋』から帝位を奪い自分の国を興すのですが、この時代の血生臭さを象徴するのはここからの流れです。

 これまでは、たとえ帝位を失ったとしても命までは取られませんでした。しかし劉裕は、旧王族が反乱を起こすことも考えられたため、最後の皇帝・愍帝(びんてい)を殺害。

 以後南側では隋による統一まで四回も国が変わっているのですが、そのたびに、まずは扱いやすい皇帝を据えた上で『禅譲』させたあと殺す、という悪しき形式が確立していくことになります。

 『禅譲』とかいう儀式さえ終われば用済みで、殺されるのが最初から決まっている。哀しい生涯ですね。

 こうして新たな国家の皇帝となった劉裕ですが、即位後三年ほどで亡くなってしまいます。その次に即位したのが、わずか十六歳※で即位した劉義符(りゅう・ぎふ)こと少帝です。

 この人物も先立って掲載した小説『真・幼帝再臨抄』で出しましたが……
 新興国家『』の船出は二代目から早くも試練に見舞われることとなるのです。


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※当時の中国は漢字文化圏独特の「数え年」という年齢の数え方をしていたのですが、紛らわしいので、断りがない限りはすべて「満年齢」という現在の数え方にしています。ご了承ください。


魏晋南北朝時代 劉宋(2)

 『東晋』を滅ぼし『宋』を建国した父・劉裕のあとを継いだ少年・劉義符ですが……

 父の葬儀の際にもマナーが悪かったりと、どうもこの若き皇帝、素行がよくなかったようです。見かねた家臣によって退位させられ暗殺されてしまいます。即位からわずか二年後のことでした。

 その後即位した三代目の文帝こと劉義隆(りゅう・ぎりゅう)のもとで一時戦乱も収まり安定した時代を迎えますが、やがて北魏の圧迫を受けて弱体化していくこととなります。

 それに拍車をかけたのが、身内の争い。
 文帝と不仲で、次期皇帝の座を降ろされかけた劉劭(りゅう・しょう)はみずからの父親を暗殺して皇帝となったのです。

 しかしその劉劭自身も、国を混乱に陥れた「元凶」として、弟の劉駿(りゅう・しゅん)によってわずか三ヶ月で殺害されてしまいます。

 親子兄弟で殺し合う泥沼の展開。
 悲しいことに劉駿こと孝武帝(こうぶてい)も皇帝として決して優れたタイプではなく、身内の粛清や重税によって国はますます傾いていくこととなります。

 さらにその次に十五歳で即位した劉子業(りゅう・しぎょう)も、かつて「元凶劭」から命を狙われたこともあってか、身内や家臣を容赦なく殺害したり、親族で肥満だった劉彧(りゅう・いく)を「猪王(ちょおう)」と呼んで動物扱いするなど、歪んだ性格に育ってしまったようです。

 劉子業はおよそ一年半後に処刑され、皇帝として認められない「前廃帝」に落とされることとなります。
 ここで「前」と書いたということは、もちろん「後廃帝」もいます。それが劉彧こと明帝(めいてい)亡きあと九歳で即位した劉昱(りゅう・いく)です。

 「天性好殺」と評されるように、自ら殺人をしないと満たされなかった、という中国史でもまれに見る激ヤバ皇帝。それが劉昱

 即位から五年で彼を処刑したのは、蕭道成(しょう・どうせい)将軍。
 皇帝は将軍を排除しようとしていたようなので、個人的な怨恨からかなり話を盛られてクソミソに書かれている可能性のほうが高いのではないか、と素人目には感じられます。
 幼帝自ら武器を持って市民を殺すみたいな異常事態が五年も続くでしょうか? ほかの少年たちはすぐに殺されているのに?

 ともあれ、蕭道成将軍は後廃帝・劉昱を殺して劉準(りゅう・じゅん)を即位させたことは事実です。

魏晋南北朝時代 劉準~その後の南朝

 後継者争いのために身内で殺し合うという、愚かな過ち。
 『劉宋』(四二〇年~四七九年)は末期症状を呈していました。

 四七七年、皇帝となった少年・劉準(順帝)はもはやただ座して死を待つだけの哀れな人形に過ぎませんでした。
 実際に国を動かしていたのは、漢の創始者・劉邦の部下蕭何(しょう・か)の子孫を自称する蕭道成将軍。もはや誰も彼に敵わなかったのです。

 二年という異常に短い少年劉準の時代で重要なこととして、四七七年、『倭の五王』である(安康天皇?)、翌年にワカタケル大王こと雄略天皇?)の使者が訪れているのは特記しておく必要があるでしょう。

 ですがそれ以外は見るべきところもなく、ほどなく彼は『禅譲』の手続きを強要させられて退位。
 
 「願後身世世、勿復生天王家」――生まれ変わっても二度と王家には生まれたくない、という言葉を残したそうです。

 その後少しの間は丁重に扱われましたが、すぐに濡れ衣を着せられ殺されてしまいます。これによって、身内争いが常である歴史上の諸国家を比べてみても凄惨を極めた『劉宋』は五十九年間しか命脈を保てず滅びたのです。


 なおこれでもその後に南部を支配した3国家よりも長いのですから、いかにこの時代の国家運営が不安定だったかがうかがい知れるというもの。
 蕭道成が興した『(せい)』(四七九年~五〇二年)に至っては『宋』の半分以下しか保たせることができませんでした。
 三代目の蕭昭業(しょう・しょうぎょう)即位(四九三年)から最後までの十年弱で五人の皇帝が代わる異常事態。
 しかもうち三人は皇帝から引きずり落とされた「廃帝」というありさまでしたから、結局は『劉宋』の悪しき歴史に学ぶことができなかったといえるでしょう。


 次の『(りょう)』は同じ一族の蕭衍(しょう・えん)が、五〇二年に建国し、五十五年続きました。
 それなりに長いように感じますが、そのうち初代・蕭衍の治世が四十七年を占めるので、実質的に蕭衍個人のカリスマ性だけで保っていた国であるといえるでしょう。

 蕭衍は仏教を厳格に信仰し「皇帝菩薩」と崇められるほどの「聖人」ぶりでしたが、それが逆に自らを過信し、判断を誤らせます。

 北魏が分裂して生まれた『東魏(とうぎ)』から寝返った侯景(こう・けい)に裏切られて捕らえられ(五四九年)、そのまま衰弱死。
 それからの『梁』はほぼ滅んだに等しく、その後は王僧弁(おう・そうべん)と陳霸先(ちん・はせん)という二人の勢力争いとなります。

 南部の主導権をかけた王僧弁との戦いは陳霸先が勝利。
 まだ十六歳の少年であった梁最後の皇帝・敬帝(けいてい)に禅譲を強要し殺害。五五七年に『』を建国しました。

 『陳』はこれまでの3国よりも北部に対して劣勢に立たされます。

 北魏から東西に分裂(五三五年)したうちの『西魏(せいぎ)』を乗っ取り成立(五五六年)した『北周(ほくしゅう)』が五五七年に北部を統一したことで南部にまで侵略してくるようになったのです。

 陳の宣帝(せんてい)は圧倒的不利の中よくこらえた方ではありましたが次の代である陳叔宝(ちん・しゅくほう)は遊んでばかり。『陳』の衰退は決定的なものとなります。
 なおこの後主・陳叔宝のエピソードは以前の更新にてすでに軽く触れています。


 南部に対して優勢に戦いを進める『北周』も安定した国家とはほど遠く、五八一年、外戚(がいせき)の楊堅(よう・けん)に乗っ取られて滅亡、『(ずい)』が成立。
 目まぐるしく情勢が変わりますね。乗っ取りだらけです。

 結局『陳』は五八九年に隋に攻められ滅亡。
 これにより、後漢滅亡(二二〇年)以来、三七〇年弱ものあいだ続いた『魏晋南北朝時代』という混乱期が収束し、中国は再び統一されたのです。


 次の更新ではそんな偉業を成し遂げた『隋』もまた短命に終わった、ということを見ていこうと思います。


隋の滅亡

 魏晋南北朝が終わり、『(ずい)』を開いた楊堅(よう・けん)。
 この楊堅、実はすべての中国皇帝を比較してみてもトップクラスに有能な人ではないのかなと見てます。

 というのも……
 公務員採用試験『科挙』をはじめたほか、『三省六部』という官僚機構を作り上げたりと、一般的には『(とう)』の国家システムとして説明されるものが出来上がるのは実は楊堅の時代なのです。
 このシステムは、時代に合わせて変化したり一時廃止されつつも、基本的には二〇世紀の『清』末期まで実に約一四〇〇年もの間ずっと使われ続けたのです。

 この事実はもっともっと評価されていい。

 『唐』の2代目・李世民(り・せいみん)の時代が「貞観(じょうがん)の治」と呼ばれ史上最高の評価を得ているのも、実は楊堅が整備したレールにうまく乗ったことが大きいと見ています。
 つまり後の『唐』やさらに後代の中華王朝の土台を作ったのは実は『隋』の楊堅なのではないかなと。

 これは『秦』の始皇帝が整備したシステムを『漢』が引き継いだ、という過去をなぞっているように感じられてなりません。

 『隋』自体が非常に短命だったことと、息子の評判が悪いことが災いしてイマイチ目立たないんですが……このあたりも秦と似てますね。要は、平和を築くまでの過渡期だったというところでしょうか。


 楊堅に欠点があるとすれば息子の教育を誤ったということになろうかと思います。もっとも父親の前では猫かぶっていたようなので、息子のボンクラさを見抜けなかったとしても致し方なかったでしょう。

 楊堅の跡を継いだ煬帝(ようだい)こと楊広(よう・こう)。
 「日出ずる国」ではじまる聖徳太子が書いた文書にブチ切れたといわれる皇帝です。この煬帝、これまたすこぶる評判が悪い

 即位するや否や、隠していた贅沢好きの本性を露わにし、質素と倹約を心がけて国を富ませた父の努力をムダにしてしまいます。中国を縦断する水路「大運河」建設でそれに拍車をかけました。

 ただこの大運河、産業革命後のヨーロッパがやってくる前までは中国の物流と経済発展を支える原動力となったことは指摘しておかねばなりません。
 あまりにも性急に建設を急ぎ国民を酷使するくせに利益を還元せず贅沢にふけりさえしなければ、もっと評価されてもいい国家事業だったのです。

 さらに中国東北部~朝鮮半島北部を支配していた『高句麗(こうくり/コグリョ)』に連戦連敗だったことも皇帝の威信に大きく傷をつけたといえるでしょう。

 もっともこの時代の『高句麗』は、隋討伐で多大な軍功をあげ武人としても一流であった李世民でさえ落とせなかったほど強かった。
 高句麗を倒せなかったのは煬帝に限った話ではなかったのです。


 とはいえ民衆には不人気だったということはいえるでしょう。
 至る所で反乱が起こります。

 各地の反乱勢力でもっとも強大だったのが李淵(り・えん)で、首都を攻め落とし、まだ十四歳と若い煬帝の孫に『禅譲』を迫って『唐』の初代皇帝となりました。

 この時、煬帝を殺した反乱者を倒して別勢力を築いた王世充(おう・せいじゅう)という男に担ぎ上げられたのが、同じく煬帝の孫の一人である楊侗(よう・とう)です。

 彼もまた『禅譲』を強要されたあと殺される運命でした。
 即位から一年も経たぬうちに十五歳で死去。
 彼もまた劉準と同じく、「生まれ変わっても二度と皇帝の家には生まれたくない」というような言葉を残したそうです。


 こうして隋は完全に滅亡。
 ほどなく王世充も敗死し、『』が隋の後継国として中国を再統一。
 そこからしばらく中国は『唐』のもとで平和と繁栄を謳歌することとなるのです。

Before the "Last Emperor"

 『ラストエンペラー』という映画をご存じの方は多いことと思います。

 中国最後の皇帝・宣統帝(せんとうてい)こと溥儀(ふぎ)を描いた名作です。
 アカデミー賞九部門受賞、王宮を大々的に貸し切って撮影されたスケールの大きさ、坂本龍一氏が音楽を手がけたことなど、多くの人の記憶に残っている作品なのではないでしょうか。

 今回のトピックはその有名過ぎる幼帝……のことではありません。
 溥儀の前に実は幻のラストエンペラーがいたことは意外と知られていないのではないでしょうか。今回はその人物について取り上げていこうと思います。


 その人物について説明するにはまず前代の光緒帝(こうしょてい)について触れなければなりません。私は実のところ溥儀よりもこの光緒帝という人物に深く感情移入してしまうのですよね。

 この光緒帝の時代の中国――『(しん)』では西太后(せいたいごう)という女性が絶大な権力を握っていて、皇帝はお飾りに過ぎませんでした。


 西太后という名前を聞いたことのある人は多いかもしれません。
 皇帝にこそならなかったものの、女帝・則天武后と真に張り合えるほどの力を持っていた人物です。

 夫の咸豊帝(かんぽうてい)死後、息子の載淳(さいじゅん)が同治帝(どうちてい)として即位したことで皇帝の母としての権力は揺るぎないものとなります。なお「西太后」とは「東太后」という別の皇后がいたことからきています。


 しかし、同治帝は十九歳で夭逝。
 後継者に選ばれたのが、西太后の妹の子である載湉(さいてん)。
 わずか三歳で即位しました。この幼子が第十一代皇帝・光緒帝です。

 この頃の中国は、相次ぐ敗戦により以来香港やマカオなどの領土を西洋に切り取られていくばかり。中国の衰退は誰の目にも明らかでした。
 もっとも痛手となったのは日清戦争(一八九四年~一八九五年)の敗北
 もはや「眠れる獅子」と恐れられることもなくなり、日本を含めた欧州各国の侵略が激化していったのです。

 この状況を打開するため光緒帝は一八九八年、日本の明治維新を模範とした「変法自強運動」と呼ばれる近代化改革に乗り出そうとします。
 しかしあまりにも急激に改革を進めようとしたため西太后の反発を招き、光緒帝は宮殿内に監禁されてしまいました。『戊戌(ぼじゅつ)の政変』といいます。

 西太后は新しい皇帝を立てようとします。その時に候補に挙がったのが、今回紹介させていただきます溥儁(ふしゅん)という十四歳の少年でした。

 しかしこれは西洋から反対されました。
 光緒帝を廃位しようという目論見は潰え、溥儁少年はわずか三日で皇帝の座から引きずり降ろされることとなったのです。

 その後、異民族排斥をうたう過激派集団が起こした『義和団の乱』(一九〇〇年)に加担して西欧や日本の軍事介入を招いた父親に連座する形で追放された溥儁。後年北京に戻ったもののアヘンを吸う破滅的な生活で貧乏に身をやつして亡くなったそうです。

 『清』が滅びたあとも溥儀が波乱の人生を送る一方でひそかに落ちぶれていった「廃帝」もいたのだ――ということを頭に入れておきますと『ラストエンペラー』の不条理な時代背景をより深く理解できるのではないでしょうか。


 なお祖母と孫くらいに年齢の離れている光緒帝と西太后の死亡日時がたった一日違いだということから当初から毒殺がささやかれています。西太后をはじめとした数人の名が真犯人として挙げられているものの確証となるものは出ていません。

 六世紀~七世紀の(ずい)からいきなり一九世紀~二〇世紀へと一気に時代が飛んで申し訳ありません。
 次回は時代を再び魏晋南北朝まで遡りまして、「幻の女帝」について触れていこうと思います。

魏晋南北朝時代 北魏 名も無き幻の「女帝」

 ここまであまり日の目を見ることのなかった『廃帝』たちをテーマにお送りしていた当コラム。
 その大トリを飾る更新では、私の小説でラスボスを務めた「幻の女帝」を取り上げることと致しましょう。


 中国の歴史上少なくない数のいる『廃帝』ないし『幼帝』をテーマに小説を書こうと決めるにあたり、きっとみなさまがもっとも驚かれる「隠し玉」となるだろう――
 そう思いラスボスにまで据えた「幻の女帝」というのは、いったいどのような存在だったのでしょうか?

 小説で『劉宋』最後の皇帝が主人公だったため、当コラムでも魏晋南北朝と呼ばれる時代の南側――『南朝』側の説明に大きなウエイトを置いたわけですけれど、対立する北側の『北魏(ほくぎ)』でも多くの『廃帝』が立てられては消えていきました。その過酷さは南側をも凌ぐほどです。

 ここではそんな『北魏』の末路を紹介しながら、「幻の女帝」について見ていくことにしましょう。


 歴史家たちによって『北魏』と呼び習わされている国家は鮮卑(せんぴ)出身の拓跋(たくばつ)氏が建てたもので、三国志『魏』の曹(そう)一族と血縁関係はありません

 中国北部(華北)は統一国家『(しん)』の崩壊以後、異民族の勢力を中心とした小国乱立の時代となります。

 初期の北魏は『』という名前で、一度は滅んだ国家でした。
 拓跋桂(たくばつ・けい/道武帝)の時代から急速に力をつけ、三九八年国名を『』として皇帝に即位。
 四四二年、第4代皇帝・太武帝(たいぶてい)の時代に中国北部を統一
 南部の『劉宋』と中国を二分する南北朝時代の幕が上がりました。

 華北の盟主となったあとの北魏は、姓を元(げん)と改めるなど、漢民族風の国家へと一気に生まれ変わろうとしました。そのため、鮮卑の文化を保ってきた有力者が没落。政権への不満を募らせていきました。

 そんな状況下で五一五年に即位した元詡(げん・く)こと孝明帝(こうめいてい)はわずか二歳だったため、政治の実権は母の胡太后(こたいごう)が握っていました。この皇后に政治の才能はなく、大規模な反乱が起きることとなります。

 この事態をなんとか収拾するため、孝明帝は有力な武将であった爾朱栄(じしゅ・えい)と共に密かに実母排除を目論みましたが逆に十七歳の若さで殺されてしまいます(五二八年)

 息子を葬り去ったあと胡太后は生まれて二ヶ月ほどしか経っていない孝明帝の娘を男の子と偽って皇帝に立てるという前代未聞の暴挙に出ます。
 この、自らが何に巻き込まれているのかすら知ることのなかった女児こそが、則天武后よりも前に即位していた「幻の女帝」なのです。

 調べたところ中国では『元姑娘(イェン・クーニャン)』と呼ばれているようです。

 この胡太后の企てはすぐにバレたのでわずか一日でこの女の子を廃して、孝明帝のはとこである三歳の元釗(げん・しょう)を即位させました。
 その後の元姑娘の動向は伝わっていないようです。恐らくは殺されたものと思われます。

 その一ヶ月後、爾朱栄胡太后と元釗を黄河に投げ捨て、代わりに元子攸(げん・しゆう)こと孝荘帝(こうそうてい)を立て、娘をめとらせて外戚となることで絶大な権力を手に入れます。
 孝荘帝は傀儡の立場から脱そうと皇后が妊娠したことを理由に爾朱栄を宮廷に呼び寄せ暗殺することには成功したものの、すぐにほかの爾朱氏一族に捕らえられて廃位(五三〇年)、翌年殺されてしまいます。

 その後元曄(げん・よう/東海王)、次いで元恭(げん・きょう/前廃帝)が立てられましたが、爾朱栄の部下だった高歓(こう・かん)が爾朱一族を倒し、さらに元朗(げん・ろう/後廃帝)、元脩(げん・ゆう/孝武帝)と皇帝を次々とすげ替えました。
 孝武帝宇文泰(うぶん・たい)という別の有力者を頼って高歓の排除を図るも五三四年に逆に殺されました。当時の皇帝はこんなんばかりですね。


 わずか六年の間で、元姑娘を含めて七人も皇帝に立てられては降ろされるという異常事態。

 以後、宇文泰が実質的に支配する『西魏(せいぎ)』と、高歓の『東魏(とうぎ)』に分裂することとなります。

 なおこの呼び方は例によって便宜的なもので、どちらも正当な『魏』だと主張していたため、正確には同じ名前の国家がふたつあったということになります。
 ややこしいことこの上ないですが、戦乱の世で同じ名前の国が複数あるというのは中国では割とよくあるのが困りものです。

 『西魏』『東魏』では一応北魏以来の元氏一族が皇帝として即位していましたが、どちらの皇帝もお飾りにすぎませんでした。
 やがて『西魏』は宇文氏の『北周(ほくしゅう)』に、『東魏』は高氏の『北斉(ほくせい)』に取って代わられ、元氏の国は滅亡したのです。


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