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コラム:歴史に葬り去られた中国の皇帝たち

はじめに

 はじめましての方ははじめまして。
 すでにいくつかの作品でご縁のある方は、こちらもご覧いただきましてありがとうございます。

 すっかりエッセイの人、コミナトケイです。


 このコラムを書こうと思ったきっかけは、『幼帝再臨』という歴史SF(?)小説にあります(先にnoteで主人公の設定を少女に変えた『真・幼帝再臨抄』としてリニューアルしました)

 この小説、中国の歴史をベースにして、歴史ものの小説では通常取り扱わない時代の人物が多く登場します。そのため、本編じゃ語りきれない歴史的な背景を別の場で説明しないとなんのこっちゃかわからないだろうと思ったのです。

 作品内ですべて説明できない小説などカスじゃないかと言われてしまえばそれまでかもしれませんが……

 三国志の英雄たちのような、華やかなエピソードはない。
 秦の始皇帝のような前人未到の偉業を成し遂げるようなカリスマ性も全くない。

 そして何より、そもそも名前が出ることすらない
 学校の授業なんかでは真っ先に飛ばされる。歴史好きにさえ見向きもされない。そんな題材。並大抵の労力で過不足なく説明することは困難だろうと思ったのです。

 理由は至って簡単。くだんの小説で主役になる『皇帝』たちは、みんな時代の流れに翻弄されるがままに、ほとんど活躍することなく皇帝の座から引きずり降ろされた『廃帝』たちだからです。

 歴史は勝者が作る、とよく言われるものですが、ここで出てくるのは後世顧みられることもない『敗者』ばかりなのです。

 これまで多く、それこそ数え切れぬほど歴史小説、歴史上の人物が描かれてきましたが、その多くの方々があえて題材にしてこなかった。

 なぜなら、そんな人々よりも魅力的な人物は歴史上いっぱいいるのであり、わざわざ知名度もないような非-英雄を描くよりも面白いに決まってるからです。

 たとえば三国志
 乱世をたくましく駆け抜け国を興し覇を競った曹操劉備などを描く作品は数あれど、彼らを差し置いてあえて献帝――単なるお飾りとして利用されたにすぎない存在の方を主役に据えたりするでしょうか?

 多くの方にとって答えは「No」であることと思いますし、またそんな主人公はカッコ悪いし見たくない、と思われることでしょう。私自身そうです。

 小説を世に発表するからには、読者となりうる方々を楽しませなければいけません。その小説を「売れる」ように描かなくてはいけません。

 ひどくバチ当たりな言い方をしてしまえば、「売れない」題材をあえて選ぶなんてお金をドブに捨てているようなものです。


 ですが、たとえ歴史の記述で顧みられなかったとしても、恐らくは彼らは彼らなりに『皇帝』であろうとしたのです。他の人にとって面白かろうが面白くなかろうが、時に浅ましく泥臭く、呆れるくらいに――彼らなりの人生を生き抜いたのです。いや、生き抜くことはできなかったか。


 彼らの人生までなかったことにはできない。
 彼らの人生を拾い上げる酔狂な奴が、一人くらいいてもいいだろう。

 争いに敗れ、今や誰も顧みない敗者にだって、たまたま時代の不幸が重なっただけで、もしかしたら英雄となり得る素質があったかもしれないじゃないですか。


 彼らを近未来に『転生』させ一堂に会する場を与え、歴史上非業の運命をたどった元・皇帝たちを互いに争わせるという「やり直し」のストーリーとして。

 私は曹操や劉備よりも、あえて献帝の方を描きたい

 歴史に「もしも」などと考えるのはナンセンスかもしれませんが――
 華やかな歴史の裏で、すべてを失い、何者にもなれなかった人たちの無念を知って欲しくて、『真・幼帝再臨抄』を描くに至ったのです。


 前置きが長くなってしまいましたね。すみません。
 当コラムは通常多くの歴史ものが取り上げる部分はおそらくあまり扱わないと思います。マイナー史が好きな自分の趣味を色濃く反映したものになるでしょう。

 とはいえこんなどこの馬の骨かもわからぬ輩が書いていようが、一応は公式の場で発表されている読み物。
 読者さまを意識し、少しでも多くの方が普段触れることのない新たな刺激に目覚め、歴史にご興味を持っていただけるように、私なりに尽くしてまいります。

 それでは一風変わった歴史コラム。どうぞよろしくお願い致します。


『廃帝』とはなにか

 中国三千年とか四千年とか、よく言われることと思います。

 ご存知のように、中国は世界四大文明と言われる『黄河文明』が始まった地点です。世界的に見ても古来から非常に栄えた地であり、冒頭の表現はそれを誇りにしているし、また世界的にも高く評価されていることの現れでしょう。

 そんな中国では、実に二〇世紀に至るまで『皇帝』と呼ばれる最高権力者が支配する世が続いていたことも、多くの方がご存知でしょう。


 『皇帝』という称号をはじめて使ったのは秦の始皇帝と言われています。これも多くの人がご存知でしょう。その男は多くの物語の題材になっており、大人気漫画『キングダム』でも主人公の一人として描かれています。

 それまでは各地に多く存在する国の『王』の一人にすぎなかった秦王・は驚くべき早さで中国を統一し、各地の『王』を超える存在として『皇帝』を名乗ったのです。

 始皇帝の国である『秦』は相次ぐ反乱と内部の争いによってすぐに崩壊しましたが、『項羽と劉邦』で知られる劉邦によって再度統一され『』という国になっても『皇帝』という称号は引き継がれました。

 それ以降、映画『ラスト・エンペラー』で有名な宣統帝・溥儀(ふぎ)が一九一二年に退位するまでの実に二千年以上もの間、支配する人や国はしばしば変わることになりますが、『皇帝』という存在が中国を支配するという構図そのものはずっと続くことになります。


 さてそんな中国の皇帝という存在ですが、みんながみんな秦の始皇帝や劉邦みたいに強大な権力を持てたわけではありません。
 後述することになると思いますが、始皇帝の後を継ぐことになった『二世皇帝』胡亥(こがい)や、劉邦の息子・恵帝(けいてい)の例で早くも証明されてしまいます。

 だだっ広い中国全土でいちばんエラい人なわけではありますが、時にはその部下や親戚の方がエラくなったり、また匈奴(きょうど)やモンゴル人などといった外からやってきた侵入者に負けて、相手の方がエラくなってしまったこともありました。皇帝が中国を支配した最後の国である『』の皇帝は元々そういった異民族でした。

 
 中には皇帝として即位したはいいものの、あまりにも悪い政治を行って誰からも支持されなくなったり、家臣や一族の争いに巻き込まれたりして皇帝の位から引きずり降ろされた、『廃帝』という人達も多く存在します。


 通常皇帝は亡くなった時に諡号(しごう)・廟号(びょうごう)というものを後世の人から贈られます。後世の人が前の皇帝に敬意を払って、その皇帝を表す美しい名前を考えて贈ろうという考え方です。


 たとえば後漢最後の皇帝は『献帝』と呼ばれますが、これは『孝献皇帝』という諡号を略したもので、本名は劉協といいます。廟号はお墓に書かれる称号で、たとえば漢の劉邦は『高祖』という廟号を贈られています。

 しかし、皇帝の資格がないとして、諡号などが贈られなかった人達がいます。そういう人達が『廃帝』と呼ばれる存在です。幼い場合『少帝』、最後の皇帝だった場合『後主(こうしゅ)』などと言われます。


 最初の『少帝』は漢の第3代皇帝・劉恭(りゅう・きょう)です。
 実の母を殺された事実を知り怨みを募らせていたのをその犯人である祖母に知られ、先手を打たれ若くして殺されたという悲しい生涯でした。

 これが初代皇帝・劉邦が死んでわずか十年後のことです。
 後漢も含めると四百年ほど続いた『』ですが、開始早々国家存亡の危機に陥っていたのです。


 『後主』でいちばん有名なのはなんと言っても劉備の子劉禅(りゅう・ぜん)ですが、特記すべき後主として『』最後の皇帝陳叔宝(ちん・しゅくほう)がいます。

 あまりに無能だったため、彼の国を倒した『隋(ずい)』の楊堅(よう・けん)にも全く警戒されず、外遊や宴席の同行を許されたとされています。彼は楊堅の息子・楊広(よう・こう)にさげすまれ、侮辱の意味を持つ『煬』の文字の入った煬公という格下の称号を贈られます。

 なおその楊広も『(とう)』により滅ぼされ、自身も『煬』の字を贈られることとなります。

 これが聖徳太子の「日出る処の天子」うんぬんで怒ったというエピソードで知られる隋の第2代皇帝・煬帝(ようだい)だったりするのですが、本筋からは外れるのでこのへんにさせていただきましょう。


 さてざっと中国の皇帝について数人引き合いに出しながら説明させていただきました。

 本コラムではそんな『廃帝』や、諡号こそ贈られているものの、権力者の傀儡(かいらい)として利用され最後には帝位を奪われた、幼き皇帝たちにフォーカスを当てていきます。

 しかし、彼らの事情をよりご理解いただくためにいくつか念頭に入れておけば理解度が大幅に上がる事項についてのご説明を先にさせていただきたいと思っております。

 よろしければぜひこの風変わりな歴史コラムに、今後共お付き合いいただけましたら幸いです。

『禅譲』と幼い皇帝たち

 最初は乱世に翻弄され姿を消した哀れな『廃帝』たちについて書いていっておりますが、彼らの実態をよりスムーズに頭に入れていただくため、予備知識を先に説明させていただいております。

 非常に遠回りな方法であるとは自覚しておりますが、これらをしっかり押さえておくかおかないかで彼らの過ごしてきた歴史、なかんずく中国の歴史全体への理解度が天と地ほど変わってまいりますので、窮屈な話かもしれませんがなるべく退屈しないように努めてまいります。


 さて、今回は中国において国を立ち上げ、新たな皇帝となろうと野望を抱く者たちが多く取った、権力奪取の方法について、今回はご説明させていただこうと思います。


 新しい支配者となる人は自分が力ずくで皇帝を引きずり下ろしたと思われるのをひどく嫌いました。

 そこで「前の皇帝から正式な許可を得て皇帝の地位を譲ってもらいましたよー。ボクチン決して力ずくとかいう野蛮人みたいな真似はしてませんよ」という大義名分を欲しがったのです。
 
 この考え方を『禅譲(ぜんじょう)』と言います。

 実際の場合ほとんどすべてといっていいほど暴力的な簒奪(さんだつ)だったのは誰の目にも明らかなのですけどね。


 ちょっと話が外れますけど、ここで故事成語のお勉強です。
 始皇帝で有名な『秦』の国に趙高(ちょう・こう)という宦官(かんがん。男性器を切り取られたお世話係)がいました。

 この『宦官』についても後に解説することになると思いますが、ここではさて置きまして――

 この男性としての機能を失った男は、皇帝のお世話係というポジションを最大限利用します。始皇帝の死後彼の遺言を捏造し、操りやすい胡亥を皇帝に据えることで絶大な権力を手に入れることに成功しました。

 そんな趙高が、「珍しい馬です」と称して鹿を皇帝・胡亥とその家臣の前に鹿を見せたという「馬鹿」の故事をご存知でしょうか。

 実際は誰がどう見ても鹿です。その場にいた誰もが「珍しい馬」なわけがないと思ったに違いありません。

 ですが趙高は、それでもあえて「馬だ」というミエミエの嘘をついたのです。なぜでしょうか?


 実はこれは「踏み絵」のようなものでした。


 この嘘の真の狙いは、反抗する家臣たちのあぶり出しにあったのです。

 ここで「何言ってるんだこれは鹿じゃないか」と言えば、中国でいちばんエラい人の代理として絶大な権力を握っている趙高の意見に反対しているわけです。趙高にとってやがてその人達は敵となることは明らかでした。この時正直に答えた家臣をすべて抹殺するに至るのです。


 馬鹿という言葉にはこんな恐ろしいエピソードが込められていたのです。

 この、支配者が白と言ったものはたとえ黒であっても白と言わなきゃならない、という構図、『禅譲』についてもバッチリ当てはまります。

 たとえそれが汚くて黒い暴力であったとしても、「自分よりあなたが皇帝にふさわしい」という白い嘘を、前の皇帝に無理やり言わせていたのです。


 新しい皇帝になろうとする者は最初こそ「いやいや私なんかふさわしくないっスよ~」と拒否しますが、何度も前の皇帝から「いやいやあなたの方が」と言わせてから、「そこまで言うならしょうがないな~皇帝になっちゃうか~~」と重い腰を上げるフリを装う。

 というのが、『三国志』で曹操の操り人形として描かれる後漢の献帝が、そのようにして曹操の息子・曹丕(そうひ)に『禅譲』させられて以来、お決まりのパターンとなりました。


 ダ○ョウ倶楽部かおのれらは! とツッコみたくもなりますね。


 ですがそんな茶番が、支配する皇帝の血筋(王朝)が変わるたびに行われ続けたのです。


 古来中国では王や皇帝という存在は、その実態はどうあれ神の代理人(天子)として地上の支配を託された者とみなされていました。

 その代理人である支配者がメチャクチャな政治をして国を混乱に陥れた場合、天は「天命が尽きた」と判断して、優れた者を新たな代理人として選ぶのだとされました。


 この考え方を、天命革(あらた)まり姓が易(か)わる――『易姓(えきせい)革命』といいます。


 易姓革命には2つのパターンがありました。
 武力で追い払う『放伐(ほうばつ)』と、あとひとつが『禅譲』です。


 「中国の伝統? シラネ」とかいうモンゴルなどの異民族でもない限りは多くの場合、放伐という印象を持たれることを避けました。

 天子を斬り殺して自分が支配者となるということは、いわば神殺しにも等しい冒涜。民衆への印象も最悪で、支持も受けられない。そこで、あくまでも平和的に譲ってもらったというストーリーを演出した、というわけです。


 さてこの『禅譲』ですが、後代にひとつのパターンが確立します。


 ①皇帝位を奪う前にまずは右も左も分からないお飾りの少年を即位させる

 ②その少年を補佐する実力者として、まずは権力を盤石なものにする

 
 そうしたステップを踏んだ上で、幼い皇帝に『禅譲』を迫り皇帝のポジションを譲ってもらう。

 そうすることでより反発も少なくスムーズに皇帝となることができますし、何より相手は力もない少年ですから、邪魔になれば殺すなりどうにでもできる。

 
 この『禅譲』による権力奪取の手法は趙匡胤(ちょう・きょういん)が『(そう)』を開いた九六〇年まで続くのですが……

 曹丕に位を譲った献帝は天寿を全うできただけまだ幸せな方で、前の皇帝はひそかに殺されるのがほぼお決まりのパターン。


 私の書いている『真・幼帝再臨抄』の主人公・劉準(りゅう・じゅん)もそうして幼くして皇帝にさせられた上ですぐに退位させられ、殺された一人でした。

 彼の代の前は皇帝位を剥奪され殺された『廃帝』であり、またその前の皇帝も先代を殺し『廃帝』にした上で即位していました。

 劉準少年はそんな血みどろの政治闘争が繰り返される国の下に生まれており、「生まれ変わっても二度と王家には生まれたくない」と言ったと伝わります。

 
 その劉準から『禅譲』を受けた蕭道成(しょう・どうせい)の『(せい)』最後の皇帝も同じように『禅譲』を強要され殺されてしまったのは、なんとも皮肉な話です。

 とまあ、このような理由で、中国では多くの国家では幼い皇帝が最後であるパターンが多いのです。


 あんだけ広い中国のいちばんトップの王様なんですから、さぞかし贅沢で幸せな生活を送ったことだろうというイメージがあるかもしれませんが……

 実際には、常に暗殺の危機にさらされながら、大人たちの操り人形にされていたような少年たちもいた、ということを覚えておいてくださると、中国の歴史を見る目も変わってくるのではないかと思います。 

  
 さてさて。思ったより長くなってしまいました。今回は『禅譲』という、幼い皇帝のたどる最期のパターンとしていちばんありふれたものをお送りいたしました。

 次回は国の中で互いに競い合う権力者の対立に利用されて皇帝の地位を落とされたパターンを見ていきたいと思うのですが――

 前漢・後漢含めて四百年ほど続いた『』の時点ですでに、二千年以上続いた中国王朝のさまざまな問題点のほぼすべてが凝縮されていると言って間違いありません。

 漢王朝四百年の歴史をひもときながら、どのように皇帝たちが幼くして世を去らなければならなかったのか、という部分に迫っていきます。


 割とメジャーな部分の説明になってしまいますが、中国を語る上でここは絶対に外せないのでよろしければ次回もお付き合いくださればと思います。

次の話はこちら

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