見出し画像

コラム:中国史の病巣はすべて漢王朝にあった

(1)外戚編

 さて前回は中国史に特有の『禅譲(ぜんじょう)』という国が変わる際に取られた手続きについてお話させていただきましたが、皇帝がその身分を剥奪され『廃帝』となったパターンとしてはそれ以外にも大きく2つのパターンがあります。

 それが、有力者同士の権力争いに巻き込まれ追放されたパターンと、政治的な資質がなかったかあまりに残酷だったかで、処刑されたパターンです。


 中国最初の統一国家である『(しん)』を倒して成立した『』は、前期と後期に分かれて合わせて四百年という長い期間にわたって続いた国となりました。

 この時代が『中国』というと後世の人が持つイメージの大部分が固まった時代であることは、中国に住む多数派民族が『漢民族』と呼ばれていることでもうかがえるでしょう。

 漢の時代は『秦』が作り上げた土台を元に、中国の基礎が固まった時代であるといえます。

 それと同時に、のちに絶え間なく繰り返されることとなる権力闘争の雛形もまた、この二千二百年も前の時代から見られます。中国という国の構造を理解するには、漢王朝のたどった流れを追っていけば非常にわかりやすいのではないかと思います。

 
 中国ではじめて統一国家『秦』ができるまでは、多くの小さな国が互いに競い合う『春秋・戦国時代』と呼ばれる時代。秦もその中のひとつにすぎませんでした。

 その『秦』も良くも悪くも圧倒的なカリスマ性を持っていた始皇帝がいなくなるととたんに反乱と内部の権力争いで弱体化し、地方の有力者がどんどん自立していきます。


 その中のひとりが劉邦(りゅう・ほう)であり、『漢』とは元々劉邦が治める漢中という地域の名前でした。

 ライバルの項羽(こう・う)とは当初大きく実力差がありました。幾度となく負けて命からがら逃げることもしばしばでしたが、しぶとく生き残り、やがて多くの家臣に支えられて項羽を破り中国を統一します。

 
 さて中国を統一し『漢』の初代皇帝となった劉邦。元々は酒好きで豪快かつ大らかな性格でしたが、皇帝となってからは疑い深くなりました。

 戦国時代の各地の王が争っていた状態や、始皇帝死後の混乱を知っているだけに、同じ失敗はしたくないということであらかじめ様々な対策を打っていきます。


 そのひとつが有力者の粛清です。


 大河ドラマ『真田丸』でもちょろっと名前が出てきた『背水の陣』の故事で有名な韓信(かん・しん)など、軍事的才能がずば抜けた家臣は裏切られると大きな脅威になります。そのために、漢の中国統一の立役者だった一部の家臣を失脚させたり殺害。そのうえで旧家臣の治めていた地域を自らの一族の者に与えました。


 つまり自分たちの一族で周りを固めれば安心だと思ったのでしょう。
 こうして初代皇帝・劉邦は一族以外の者が力を持つことがないように手を打って世を去りました。


 しかしこれが劉邦の大きな「しくじり」であり、悲劇的な混乱を招くことになります。

 劉邦の死後皇帝となった息子の恵帝(けいてい)はまだ若く性格も温和で、実際に権力を握っていたのは実の母・呂后(りょこう)でした。

 呂后は中国三大悪女の一人にも数えられるほど残酷な暗殺に明け暮れた人物として知られます。

 劉邦の側室(愛人)の戚(せき)夫人は劉邦がもっとも愛した女性で、その息子である劉如意(りゅう・にょい)は一時後継者として名前が挙がるほどに期待をかけられていました。

 劉邦の正式な妻である呂后はこれに激しく嫉妬しており、夫の死後2人の殺害を企てます。


 争いを好まない優しい性格の恵帝は劉如意を側に置くことで手を出させないように図りましたが、わずかな隙を突かれ暗殺されてしまいます。

 その後戚夫人も無残に惨殺され、変わり果てた夫人の姿を見せられた恵帝はメンタル崩壊。現実逃避に溺れて体調を崩し、若くして世を去ったといいます。


 そのようにしてライバルを葬った呂后は劉邦の一族を追放し、代わりに自らの一族で周りを固めます

 これが皇帝に嫁いだ妻の一族外戚/読みは「がいせき」)が権力を握った悪例のはじまりであり、このパターンが国を衰退させる大きな原因となることもしばしばでした。

 
 恵帝の子が幼くして次の皇帝(劉恭/りゅう・きょう)となりますが……

 この子は実のところ恵帝の正式な皇后(妻)の子ではなく、皇后などの地位の高い女性が住む後宮で働く女官の子だと言われています。呂后はその事実を隠蔽するため、皇帝の実の母親を殺害しました。

 物心ついてその事実を知った少年皇帝は呂后を激しく憎みます。

 幼い皇帝が自分を憎んでることを知った祖母は先手を打って孫ですら手にかけ、代わりにこれまた幼い劉弘(りゅう・こう)を即位させました。


 呂后の死後、三人もの皇帝がすげかえられて混乱した国をなんとか立て直そうと、処刑をなんとか免れた劉氏一族と有力家臣が協力して呂氏一族を排除、劉恒(りゅう・かん)が第五代皇帝・文帝となりました。

 これにより、漢の初代皇帝・劉邦の死後十五年余り続いた漢王室の混乱がようやく落ち着きを取り戻したのです。


 前の秦も始皇帝が亡くなってから一気に崩れましたが、漢も二代目から早々と崩壊の危機が訪れていたと考えていいのではないでしょうか。

 なお漢はその後も外戚勢力に振り回されることとなります。

 皇后の親戚として成り上がった王莽(おう・もう)が、初代皇帝劉邦からお告げを受けたと称して、お飾りの劉嬰(りゅう・えい)を排除。『』の皇帝となりました。

 これが中国史上初の『禅譲』であり、漢はここでいったん滅びることとなります。


 このように皇帝たちが皇后やその親族に権力を奪われ、時には抹殺されたというケースはこのあとの中国史でもしばしば見られます。


 もっとも有名なケースが『(とう)』の第三代皇帝・高宗(こうそう)以後の混乱。

 唐は2代目太宗(たいそう)・李世民(り・せいみん)の時代に繁栄を謳歌しますが、その死後即位した高宗(李治/り・ち)は病弱な皇帝でした。そのため高宗は思うように指導力を発揮できず、実際の政治は妻の武照(ぶしょう)とその一派に握られていました。

 やがて武照は息子たちを廃して自ら皇帝として即位。
 中国唯一の女帝則天武后(そくてん・ぶこう)となったのです。


 武后の引退と共に息子の中宗(李顕/り・けん)が復権しますが、その時彼の妻である韋后(いこう)とその一族の力を頼ったために、結局は再び外戚の時代に逆戻り。武后を手本に女帝となろうとした韋后によって毒殺されてしまいます。


 これらの混乱を収束したのが武后の孫である李隆基(り・りゅうき)。

 彼は2代目太宗にも劣らぬ善政をおこない、唐は最盛期を迎えました。この李隆基こそ『長恨歌(ちょうごんか)』の話で知られる玄宗(げんそう)その人です。


 後半生に中国三大美女の一人・楊貴妃(よう・きひ)を愛するがあまり、彼女の親戚と地方の実力者との権力闘争を招き、これがやがて八年も続いた大規模な反乱となります。

 一時は反乱勢力に首都・長安を占領されるなど窮地に追い込まれ、なんとか反乱は抑えたものの、その後の唐は弱体化していくばかりとなってしまいました。

 これまで見てきたとおり、娘が皇帝に嫁いだことによってその一族が権力を握ることはしばしばありました。
 その有力者が優れた人物だったならばまだマシなものの、こうした外戚勢力は(ずい)の楊堅(よう・けん)などの一部例外を除き無能。やりたい放題する一族も後を絶たなかったので怨まれることも多く、国の寿命を縮めています。

 
 今回は前漢にはびこった『外戚』という勢力を見ながら、それによって皇帝が排除されるといった構図があったことを見てまいりました。

 次に、皇帝の運命を大きく左右したもう一つの勢力を見ていきます。

 その勢力は王莽によっていったん滅びたあと復活した『後漢』期に猛威を振るい、その後もしばしば歴史の表舞台に姿を現すこととなります。


(2)宦官編


 中国で永きに渡り続いた最初の統一国家『漢』帝国。実に四百年以上も続いたのですが、一時期皇帝の親戚であった王莽(おう・もう)という男によって国を乗っ取られた――というのは先の話でも軽く触れさせていただいたと思います。

 漢帝国はその一時の中断を挟んで大きくふたつの時代に分けられ、それぞれ「前漢」と「後漢」と呼ばれます。以前に説明したのは「前漢」と呼ばれる時代でした。


 今回説明させていただくのは『漢』という国の後半部分にあたる「後漢」となります。

 名前こそ同じ『漢』ではありますが、「後漢」は「前漢」時代とはまったく別の問題で頭を悩ませる事になります。しかもそれが前漢の『外戚』と同じく、後世の中国の病巣を説明する上で非常に特徴的な時代となっているのが、歴史好きとしては興味深いことではあります。


 『漢』を滅ぼして『』という国が作られたものの、王莽は千年以上も前の時代を理想とした現実にそぐわない政治改革によって、かえって国を大きく混乱させてしまいます。漢の王族だった劉氏の者たちを中心に反乱が相次ぎました。

 その中で劉秀(りゅう・しゅう)という青年がいました。

 青年は真面目で穏やか、しかし芯の通った性格で、多くの人から慕われていたそうです。

 
 そんな青年の夢は


 カッコいい服を着れる役人になって、町でいちばんの美女と結婚したい!


というもの。こんな程度のスケールの小さな望みを抱きつつ生きてきた青年が、やがて『漢』を復活させるのですから、世の中わからないものです。

 とはいえ、則天武后に乗っ取られて一時期国名が変わった『唐』のようなパターンを除いて、『後漢』のように一度滅んだ国を復活させ再び天下統一まで導いた例はただの一度もありません
 『南宋』や『南明』、後述する『東晋』のように一部地域で復興したことは歴史上何度かあるんですけどね。
 一度滅んだ国を(ほぼ)完全な形で取り戻す、というのは実はものすごく困難なことなのです。この事実だけ見ても、劉秀がただ者ではなく卓越した指導者であったことがうかがえます。

 その劉秀(光武帝)から三代目の章帝(しょうてい)までは非常に安定した時代となり、漢はかつての繁栄をある程度取り戻すのです。

 その安定を支えたのは、実は光武帝の奥さん――皇后陰麗華(いん・れいか)と、次代の馬(ま)皇后によるところが大きく、彼女らは自らの一族を政治に関わらせないようにしたことで一族が好き勝手にするのを未然に防いだといわれています。

 なお陰麗華は先に触れた、劉秀青年にとって憧れだった「町でいちばんの美女」であり、皇帝はかつての淡い夢を叶えたことになります。よかったですね皇帝陛下!


 ……しかし、再興された後漢の安定も長くは続きませんでした。

 四代目の和帝(わてい)はわずか十歳で皇帝となったので、先代の皇后である竇太后(とう・たいこう)とその一族がかわりに政治をみる『外戚』の時代となります。

 しかしここからが前の時代と違うところです。和帝は外戚勢力を撃退するために『宦官(かんがん)』と呼ばれる人を使いました。

 『宦官』とは大事なところ♂をちょんぱ☆した男性がなることのできる宮廷の雑務全般をこなす役職のことです。


 ……はいすみません、真面目にやります。


 彼らは子孫を残すことができませんから、基本その人一代で終わります『外戚』のように一族が余計な力を握ることもありません
 そのため、言ってしまえば皇帝にとっては駒として非常に扱いやすい存在であり、地位の高い宦官になると皇帝のお世話係全般を任されていました。


 かくして和帝の意を受けた宦官たちの力を使い外戚勢力の排除に成功。
 この時の有力な宦官の一人に、製紙法を実用化させた蔡倫(さいりん)もいます。この時はこれで丸く収まったのですが、以後宦官が絶大な権力を持つきっかけともなってしまいます。

 実のところ、これこそが後漢が陥った、のちの中国史によく見られる失敗なのです。


 漢に限らず皇帝が治めていたころの中国は、格差が問題となっている現代の中国よりもはるかに厳しい階級社会であり、貧しい人達が成り上がることが難しい社会構造でした。

 あとの時代には『科挙(かきょ)』という役人のための試験もありましたが非常に難関であり、貧しい人たちが役人となるためには、自らあんなところを切り取って宦官になるしかほぼ道がなかったのです。

 今からわずか百数十年昔の中国を舞台にした浅田次郎先生の小説『蒼穹(そうきゅう)の昴(すばる)』主人公も自ら宦官となっています。

 当時はロクな医療技術もないうえに、衛生環境なんて最悪。
 当然、多くの人が死んでいったといいます。
 しかしそんな生命の危険を冒してでも、成り上がろうとする者が後を絶ちませんでした。

 そこまでして成り上がりたいのですから、彼らの権力志向は並大抵のものではありません。

 しかも、子孫を残せないのですから使い物にならなくなれば情け容赦なくポイッと捨てられます。子孫を残せないということは頼れる親戚もいないということであり、出世のレールからひとたび転がり落ちれば、待っているのは悲惨な末路。そのまま餓死する者も少なくなかったそうです。

 これで、彼らが生き残るのに必死になる理由もご理解いただけると思います。彼らは出世のために上官におべっかを使い、賄賂を渡します。そういう光景が宮廷のいたるところで繰り広げられていたのです。
 こんな人達が権力の中心に立ったならば、それだけで国がメチャクチャになってしまうだろう、ということは想像に難くないでしょう。

 さて宦官の手を使って皇帝に権力を取り戻した和帝ですが、二七歳の若さで亡くなってしまいます。彼のこどもが次の皇帝に即位するのですが、なんと生後百日ほどしか経っていなかった赤ん坊だったといいます。しかもその子も病気ですぐに亡くなってしまいます。


 わずか生後七ヶ月。中国史上最年少で亡くなった皇帝だそうです。


 そこからは外戚勢力が台頭するたび皇帝の威光を借りた宦官が粛清するという、泥沼の時代となります。


 特に妹ふたりを皇后につけた梁冀(りょう・き)の間は4人もの皇帝が入れ替わる異常事態でした。

 
 二人めの皇帝・ 沖帝(ちゅうてい)が三歳で没したため皇帝となった質帝(しつてい)は、誰も逆らうことのできない梁冀を、カゴ(=扈)の中に収まらず好き勝手跳ねる(=跋)魚にたとえて「跋扈(ばっこ)将軍」と呼んで反抗したため、わずか八歳にして殺害されました。

 なおこれが「跳梁跋扈(ちょうりょう・ばっこ)」という四字熟語の語源となっています。


 次の桓帝(かんてい)はそんな外戚を宦官の力を得て退陣させることができたものの、その時宦官に養子縁組と財産相続を認める譲歩をしてしまったため、宦官の力が強くなりすぎてしまいます。

 なおその時宦官ながら養子をもらい、のちに有力貴族となったのが曹騰(そう・とう)の一族。
 苗字でピンときましたね、そうです曹操(そう・そう)のご先祖様です。宦官の一族だったのですね。なおこの「生まれの悪さ」は曹操最大の弱点であり後年まで尾を引くこととなります。


 宦官が力を持ちすぎたことで学者や貴族、外戚勢力から反対の声があがりますが、宦官は彼らを弾圧する「党錮(とうこ)の禁」を行い対抗。

 反対者を排除したことで「十常侍(じゅうじょうじ)」と呼ばれる十数人の宦官達が国を支配する体制が固まることとなります。ひどく呑気な感想ですけど、十常侍って響きカッコいいですよね。


 次の霊帝(れいてい)は宦官が賄賂などでひたすら私腹を肥やすのを止めることができず社会は大混乱に陥り、大規模な農民反乱「黄巾の乱」が勃発するのです。このあたりから「三国志」でも知られる時代となりましたね。

 この乱自体は鎮圧できたのですが、地方の実力者が武力を持つきっかけともなります。


 霊帝死後、十七歳の劉弁(りゅう・べん)が皇帝になります。

 この時、曹操初期のライバルとして争うこととなる袁紹(えん・しょう)が宦官勢力を皆殺しにしたことで、宦官の支配は終わりを迎えますが、その後に待ち受けていたのは群雄割拠――多くの実力者が天下を争う戦乱時代。

 このあと董卓(とう・たく)が権力を握り、皇帝になってからわずか五ヶ月で劉弁を殺害。弟の劉協(りゅう・きょう)を代わりに皇帝にしました。「献帝」として有名な最後の皇帝です。


 この献帝の時代は「三国志」でよく知られていることと思います。董卓は養子の呂布の裏切りにあい死亡、そのあとは袁紹と曹操の争いとなり曹操が勝利。献帝を保護する曹操と、漢の血筋を引くと自称する劉備、南で自立する孫権(そん・けん)が「天下三分」する時代となります。

 その後、献帝は曹操の後を継いだ曹丕(そう・ひ)から皇帝の位を譲る『禅譲(ぜんじょう)』を強制されて退位。

 この時曹丕はわざとらしく何度も断って


 そんなに言うなら仕方ないな~~~(チラッチラッ


という、いかにも熱烈にお願いされたのをしょうがなく受けたような形を取ります。以後の『禅譲』は基本的にこの形を踏襲することとなります。


 献帝は命を保証され、意外にも初代以来二番目に長生きした後漢の皇帝となりましたが、三国時代よりあとの『禅譲』を迫られた皇帝はほぼ例外なくすぐに殺害されたことを考えると、最後までお飾りの存在のまま皇帝の座から引きずり降ろされたとしてもまだ幸福だったほうなのかもしれません。

 さて。ここまで漢王朝の歴史を見てまいりました。

 なるべく短くしたいと思いつつも、長くなりましてすみません。

 不遇のうちに亡くなったマイナーな歴史上の人物を掘り起こすためにはじめたコラムでたいへんな遠回りをいたしましたが、これでひとまず一段落。ようやく本題に入ることができます。


 なおこれは完全な蛇足ですが、「前漢」と「後漢」という区別はのちの歴史家たちが区別するためにつけた呼び方で、「後漢」という国があったわけではなくあくまで当時の国の名前はどちらの時代も『漢』であることにご注意ください。

 たぶん歴史が苦手な人はこのあたりでつまづくのですよね。
 ややこしくて。

 ちなみにこういう後世の学者による区別はよくあることだったりします。
 たとえば『漢』という国名も一般的に言われる劉邦から献帝までの『漢』のあとにもポコポコと生まれていて、「成漢」とか「南漢」とか呼ばれています。

 劉備の建てた「(しょく)」も一地方の名前であり正式な国名はあくまで『漢』です。ここは三国志を舞台にした作品を書く上でもっとも押さえておきたいところですし、逆にここがきちんとしていれば歴史に詳しい読者さんからも「おおっこいつやるやん」と思ってもらえるかもしれませんよ!

 さらにいえば「後漢」と全く同じ字で「こうかん」と区別して読む国家もあります(時期も王族も全く別物)。ややこしいことこのうえない(笑)


 話がそれてしまいましたが……それでは、できるだけ多くの方に歴史に興味を持っていただける一助となることを願いまして。


次の話はこちら


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?