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螺旋状既視感の正体

デジャヴを感じることがある。

強い既視感を最初に感じたのは小学生の頃、福島県あぶくま洞と言う鍾乳洞に観光に行った時のことだ。

高くそびえる絶壁を車窓から見て「僕ここ見たことある!」と叫んだことを今でも覚えている。

不思議なことに洞窟内ではなく外観に強く既視感を感じたのだ。

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既視感が螺旋状に渡る現象

仕事中にも何度かデジャヴを感じた事がある。

新しい何かを想像するときに、たしか以前もこんなメンバーでこんな挑戦をした事があるぞ、と言ったもので、子供の頃に感じたほど強い既視感ではない。

たしか以前もシステムの脆弱性に困った事がある。
たしか以前もこんなトラブルにあった事がある。
たしか以前も設計書のレビュー観点に悩んだ事がある。
たしか以前も性能試験の結果が出なかった事がある。

実際に体験したはずのない事もそのように感じる。

これら既視感は、自分の活動そのものを、ある時、ふと俯瞰で見たときに感じる事が多い。

自席から立ち上がって、仲間たちが働いているオフィスを俯瞰で眺める。

すると前にも似たようなメンバーで同じような悩みを抱き、似たような結論を導き出したような思い出を持っているよう錯覚するのだ。

誰にも話したことはないのだが、恐らく長く業界にいた事で、起きている事象と考えている。

自分自身が体験してはいないが、今の私と同じような立場の人が同じ空間で同様の体験をしていた事を、自分の深層心理上に記録していた結果と照合してある程度一致していた場合に、自分の過去の体験だったと錯覚しているのだ。

つまり、他人の体験を自身の体験と錯覚したのだ。

以前から先輩達の言動や考え方をしこたま盗んできたので、いつしか周囲の空間で見聞きする人間の思考と前後の文脈を洞察する癖ができた。

これが自身のプロジェクトの先読みに大いに役立つ。ここでこう言う手を打たないと恐らくああ言う目に合う。

元来臆病でもあるので、そういうリスク管理上の洞察には余念がなく、仕事のエラーを防ぐ事に大変役立っている。

名前を知らない先輩達の言動だって、一度ならず意識をトレースし、擬似的に体験しては自身の仮想体験として記憶するようにしている。

気持ち悪い癖だが、無意識に他人の意識を解析し、先手を打った言動を取り、自分の利益をよりあげようとする利己的な性格が根底にあるのかもしれない。

恐らく私も若手の社員なんかには同じように意識をトレースされている可能性もあるし、それで彼らが幸せになれるなら勝手に役立てて欲しい。

そうやって彼らもまたいつしか既視感を抱くだろう。どこかで体験した事があると。

人の営みは、こうして螺旋のように既視感をもたらしながら、より次世代がアップデートしていくのだろう。

私が幼少期に体験した強いデジャヴの原因は分かっていない。母の記憶なのか父の記憶なのか、お腹にいる時の体験なのか。

そのデジャヴに何か意味があるのか分からないが、少なくとも今、子供達を連れて、30年ぶりにあの鍾乳洞めあての旅行をしたいと思っている事は事実だ。

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