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多様性社会論

「普通」とは抽象的で非常に難しい概念だ。

人によって「普通」の価値観は異なるし、状況や環境、時代や年齢によっても異なる。

自分自身を主語にしたときに、あまりにも普通と思うか、少しおかしいと思うか、あなたはどちらだろうか。

変化は普通の域を超えない

休みの日は一日中好きな事をして、好きなだけ寝る、が「普通」だった若者がいたとする。

結婚して子供が産まれるとそんな時間は無くなり、子供のため家庭のために身を粉にして仕事と家事を一日中すると言う「普通」に変わる。

転職でも「普通」が変わる。むしろ「普通」を変えるために転職するのだろう。日中時間帯である8時間を過ごした仕事を変えるのだから、生活は変容する。

しかし、それらの「普通」はあくまでその「普通」内の出来事だ。その生活スタイルのなかでは一般的であり、そこに身を置いた者への汎用性のある変化である。

生活が変わったことによる、当たり前の変化を遂げたに過ぎない。

人の「変化」は、大衆的な「普通」内の域を越えない。変わることは普通から脱却することでは無い。

生活を「変化」させることは、その「普通」が蔓延る社会に再適応することに過ぎない。

「普通」を問題視する社会

一方、社会では多様性が叫ばれる。多様性を許容するダイバーシティと言う性質を持つ文化を、多くの共同体が望んでいる。

少しくらい変わっていても、「普通」から逸脱していても良い。それを許容するのだ、といった社会の在り方が強く提唱される時代となった。

この動きを押し上げているのは、社会的マイノリティの人々への排他的な「普通」を重大な問題として抱える社会全体だ。

現代は、大衆的価値観を重視していた社会からの変容が始まったターニングポイントである。

現代においてイノベーションを起こした人物、イーロン・マスクにスティーブ・ジョブズらのIT革命家を始め、現代社会で活躍されているインフルエンサーの姿は象徴的だ。あまりにも「普通」から逸脱している。

しかしそんな彼がもたらした技術革新は、世界中の新たな「普通」を構築し始めている。

歴史に刻まれる「当時の普通」は、「普通」を逸脱した人物から発祥したものであった。

現代でも、なおそのような人々によって歴史的偉業が成し遂げられているし、一層、マイノリティである異能者を求め、支援する風潮が高まっている。

技術的ビッグバンが数多く起きていることの一つの理由であるだろう。

多様性のエンタメ化

それでも多くの人は「普通」をこよなく愛する。

転職や結婚のように、自分のおかれる立場を変えてでも、「普通」を手に入れようとする。その「普通」が自身に幸福をもたらしてくれるものであると信じて。

そして「普通」の生活を手に入れた彼らは、スマートフォンの向こうにいる「普通」から逸脱した異能者がもたらしたニュースに一喜一憂するのだ。

「あの人、変わってるからこんなことするんだ。普通な私にはできない」
「あの人、普通じゃ無いから炎上しちゃってる。私は普通だから大丈夫」
「あの人、成功したのはきっとおかしいからなんだ。私には無理、普通だから」

と言ったように、自分が普通であることを担保に、スマートフォンの向こうの「ちょっとおかしい人の特別なエピソード」を娯楽として楽しむ。その楽しむ行為自体も、暗に「普通」の嗜みなのだと言わんばかりに。

先の通り、生活を変えても、そこには変化した先の「普通」が待っている。

普通の生活をしている、普通の「私」が、普通から逸脱したエピソードを客観的に眺めるのだ。

まだまだ社会はダイバーシティが高いとは言えない。この傾向は長く続くだろう。

人間は変化を嫌う生物であるし、「普通」から逸脱した者を、そのようにある種の見世物としてエンタメ化する行いは止まる事を知らない。

人類の想定

社会はダイバーシティを求めている。

その潜在的な理由を挙げるにあたり、多くの人々が目を瞑っている事実に目を向けなければならない。

よく言われていることではあるが、“一人として同じ人間はいない”。

多様性。ダイバーシティ。そのような言葉は、人類にとってはあまりに「普通」の状態を指す。

趣味嗜好が全て一致する人がいないように。

生まれ育った環境がその人にどのような影響を及ぼしたのか、分からないように。

他人の感情の全てが分からないように。

一人として同じ人間はいない。

従来、人類は多様な遺伝子を持って生息している生物である。同じ種の生物間で、ここまで多様性を獲得した生物は類を見ない。

地球上で繁栄した理由の一つに多様性による高度な環境適応能力が挙げられる。

あらゆる環境、状況下で対応出来るよう、人類は進化の過程で「個」を極限まで多様化する道を選んだ。

個を多様化する事によって、あらゆる災害、あらゆる病原菌、あらゆる天敵に、ストレスに耐えられる可能性を優先したのだ。

人類は、「個」を統一しなかった。

昆虫や魚類のように、均一なプログラムとする選択を取らなかった。

これらの別種とは真逆の、ランダム性を遺伝子に組み込み、複雑でより高度に進化する事で多様性を発現させた。

種としての生存を優先するため、人類は、あらゆる状況への適応能力を、多様性としてプログラムしたのだ。

人類の想定は、未知の脅威に対して多様性を持って対抗し、適応することである。

生存回帰

社会は多様性を求めている。「普通」を問題視し、個の在り方を追求せよと言う。

「異端」が成功を収めてきた。イノベーションは、マイノリティである異能者が発祥となり、この事実は社会的にも歴史的にも認知されている。

メディアにクローズアップされるマイノリティである所の人物も、差別等で人知れず苦境に陥る助けるべきマイノリティも、多様化した同じ人類だ。

社会とは「人間のコミュニティ」である。

その社会が求めている多様性とは、まさに人間そのものの本来の姿に他ならない。

「普通」と言う概念は、人間社会の秩序を保つために不可欠だった。モラルであり、共通認識としてルール化する事で、秩序にとって不都合な要素をコントロールしてきた。

その結果、必要以上に抑圧された人類本来のプログラムである「多様性」が、今悲鳴を上げている。

多様性を取り戻せと、人間本来の在り方を今こそ取り戻せという本能の叫びだ。

過度の「普通」が、病原菌のように人類を侵食している。我々は多様性を持って対抗するプログラムである。

本来持ち得た多様性が「普通」を拒み始めている。

常識と言う秩序の上で、「普通」と言うコモディティと多様性を共存させバランスを取っていくことになるだろう。

冒頭の問いに戻る。

あなたが今、自分は「少しおかしい」側だと認識されたなら、それは本能が与えたサインかもしれない。

「普通」に対する挑戦に、本能が可能性を感じているのかもしれない。

多様性を持つ種の「個」である我々の生きる意味は、「普通」の中にあるのか、あるいはその唯一無二の「個」の多様性の中にあるのか、いま本能に問いを与えよう。

その答えは、他の「個」には持ち得ない。

なぜなら、私とあなたは違う人間だからだ。

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