6/23 男女別学/共学論争と「男らしさ」

 教育におけるジェンダー問題において、男女別学と男女共学のどちらが「よい」のか、という争点が議論の的になる。括弧付きの「よい」と表記するのは、男女別学と男女共学のどちらが好ましいかは、高度に文脈依存的な判断を要し、多数の論者が主観的な基準・視座にしたがって言説を展開しているからだ。「よい」という価値判断が下される際の価値を審級する基準の一つに、望ましいジェンダー意識の形成がある。学校教育は青少年のジェンダー意識を形成する重要なファクターである。

 問いを提示する前に、男女別学/男女共学の質量のバランスを極めて雑駁に確認する。戦前の日本の学校教育は男女別学を原則としており、少なくとも中流以上の階層においては、男女は近代的性別分業に沿った異なる役割を果たすよう教育されることが求められた。戦後すべての公立小中学校とほとんどの公立高等学校で男女共学となる一方、一部の公立高等学校と多くの私立高等学校では別学体制が維持された(多賀 2016:136)。この前提を踏まえて本稿では、男女別学/男女共学の論争の歴史的な変遷を整理し、中高生のジェンダー経験(特に「男らしさ」)についての先行研究を紹介し、その上で陥穽となっている分析の視座を考察することを目的とする。中心となる問いは、男女別学論の中で、男子と「男らしさ」のジェンダー意識は、どのように明らかになってきたか、というものだ。この文章の最後に、先行研究の示唆とは一定の距離を置いて、筆者自身の考える男女別学/共学のどちらが望ましいのか、主観的な価値判断を書き連ねる。

 男性のあり方の複数のパターンには序列関係があり、R.W.コンネルは、権威と結びつき優位な地位を持つ特殊な男らしさのパターンを、「ヘゲモニックな男性性(hegemonic masculinity)」と呼んでいる(Connel 1995:76-78)。ヘゲモニックな男性性が女性性との差異によって定義される上では、優位/劣位、支配/服従などの二項対立に対応する。また、他のタイプの男性性との差異によって、従属し劣位に置かれる「従属的男性性」との区別のもとで定義づけられる。

 別学論/共学論は、「性と性別に関わる倫理観や学校の経営戦略、男女に異なる教育の効果を求めるかどうかや、ある教育効果を期待して教育の目標、内容、方法を男女で買えるかどうかが、教育空間における男女の共有/分離という側面に集約されて論じられてきたもの」(多賀 2016:142)だった。80年代後半から90年代後半にかけて、共学校内における「隠れたカリキュラム」の存在や教員の職階構造(担当学年や職位の上位には男性教師の割合が高まるなど)が明らかになった。2000年代前半以降、女子教育を男子と同じレベルに引き上げることを実質的に保障しようとする議論の中で女子校存続論者の主張が、広がりを見せた。共学は女子を不利に導き、別学は女子を有利に導くという言説が一定程度受け入れられた。2000年代以降、性別特性を強調する新しいタイプの子育て論と別学論が結びついた。この特性論は、男女が異なる特性を有すると前提してその特性を伸ばそうとする旧来の「目的としての特性論」とは異なり、目的としては性差の縮小や平準化を志向しながら、性差を踏まえた教育の方法を工夫して男女別学を推奨する点を持つことから、多賀は「方法としての特性論」と呼ぶ。筆者なりに換言すれば、男女別学を支持する特性論は、固定的な性役割(ジェンダー秩序)に順応できるよう男女の特性を伸ばそうとする論から、男女の特性を前提しそれを活かすための教育の方法が男女別学のような分離だとする論へと、重心を移動した、ということである。

 学校スポーツと男性性については、体育/スポーツ活動がきわめて男性化された活動であると同時に、男性支配を正当化する巧妙な装置である(多賀 2006:37)。様々な領域で男女の相互浸透と男女平等化が進む中で、スポーツは「男性支配の最後の砦」とさえいえる領域であるとされている。中等教育以降では顕著なことだが、体育の授業や部活動が男女別に行われていることは、男子の女子に対する優越という「神話」を維持するための重要な制度である。羽田野慶子によれば、羽田野が研究対象とした男女共学の中学校の柔道部では、男女部員は同じ時間・空間・練習を共有するにもかかわらず、徹頭徹尾、性別により異なる基準で評価されていた。女子部員は男子部員との直接対決の機会を持たないまま、「男子にはかなわない」と了解する。男子部員は、女子の「身の程知らずな(思いがけない)挑戦」を受ける機会から守られ、男子の普遍的優位性は傷つかない(羽田野 2004)。〈身体的な男性優位〉という「神話」は、体育の授業や部活動の男女別の実施によって保存・伝達され、ジェンダー体制を絶えず構成する要素になる。青少年期の男子にとって、スポーツにおける達成は教育達成よりも重要なこととして感じられているかもしれない(多賀 2006:40)。

 学校スポーツと男性性について多賀でない視点を導入したが、最後に「分けるか混ぜるか」の章を纏めて先行研究の整理を終えよう。多賀の小括では、男女別学/共学をめぐる議論は、「何のための別学・共学なのか」という基本的な問いに常に立ち戻ることが求められる。従来の議論が平行線となりがちだったのは、教育目的をはじめとする議論の照準レベルがバラバラだったことにある(多賀 2016:167)。

 以上、男性性研究者の多賀太の議論を軸に、男女別学/共学論争と「男らしさ」の問題を要約し、中高生のジェンダー経験についての先行研究を紹介した。多賀氏は幅広い領域から文献を収集し、彼自身抑制の効いた優れた要約をしながら単著を上梓しているので、特段論駁するような点はない。やや不足があるとすれば、本稿では言及できていない部分だが、「弱者支援のための別学論」(多賀 2016:159)と題した節にある。男子教育の実践の紹介では、進路多様校や児童養護施設における「男らしさ」を利用した実践が紹介される。これらは、彼の使う「被害者としての男子」という側面を強調しているきらいがあり、「既存のジェンダー秩序の再生産に荷担しているという理由だけでこれらの実践を批判することにはならない」(多賀 2016:164)としつつも、男女別学の利点を説明する研究のインパクトとして弱い印象が否めない。「弱者」「被害者」として「男らしさ」の競争に敗れがちな男子の実情を紹介した点で意義深いが、「男らしさ」の回復を促すような支援が、中高生男子を既存のジェンダー秩序に執心・拘泥する方向へ導いていないのか、より省察が必要ではなかろうか。一考察として、「弱者」になりがちな男子たちを支援する方法としての男女別学は、彼らが「男らしさ」を獲得する可能性を先延ばしたり忌避したりする方法としては有効だろうが、既存のジェンダー秩序を彼らが内破・解体・相対化する可能性を低減する方法ではないだろうか。そうではなくて、「近似する境遇に置かれる生徒との協調・協働を企図する方法」としてそうした実践の意味づけや変革を行うのが男子問題の解決に繋がると考察したい。教師たちによる支援がなされる環境というのではなく、「弱者」の男子たちが協調・協働してジェンダー秩序を問い直し、彼らなりの居場所を整備できる環境として、「弱者支援のための別学論」のアップデートを試みては如何だろうか。

 さて、ようやく雑感を書くことができる。筆者自身は共学校、進学校の出身であり、「男らしさ」の圧迫を受けて困苦を抱えることは現在なく、周囲の男友達の相談や葛藤を通じて間接的に経験するしかないのが実情だ。筆者自身は幼少期からスポーツや体育の活動は得意であり、ジェンダー秩序や学校内のスクールカーストが高い野球部に所属し、女性との人間関係も主導(※not支配)してきた。「男らしさ」に思い悩まないのは自分が既に「ヘゲモニックな男性性」を体得しているからではないか。そう感じることもしばしばだ。だが、仮に中高生時代から得てきた男性ゆえの特権や承認を手放すとしても、「男だから」と行為することはなく、「自分だから」と行為選択してきたという自信がある。学校でのスポーツや部活動の選択、女子生徒との関係においても、支配/服従のパラダイムでなく自分の嗜好で選択してきた。共学校の環境で育ったからこそ自身が「男らしさ」の困苦を逃れたというのではなく、自身の特性や選択が極端でなかったために学校内・社会内のジェンダー秩序から抑圧されなかった、と解釈している。

 男女別学/男女共学論争という本稿の問題に加わる気は毛頭ないが、筆者自身は自身や家族の学校教育を享受するにあたって男女共学を選択しそうだ。「誰とでも協調・協働できる」という成長・成熟の過程を経験する可能性を高めるために、共学校に子どもを通わせるような選択をする。含意としては、「男らしさ」のジェンダー秩序に躓いたとしてもオルタナティブな人間関係のあり方を模索しやすいのが男女共学であるし、ヘゲモニック/従属的な男性性が教室内にあるとしても、彼ら男子生徒および埒外に置かれた女子生徒との助け合える可能性が広がっている。

 また、一つ筆者が興味を持っている共学校男子の奇妙な行為について言及して本稿を終えよう。論理性には乏しいが、共学校の中高生男子が仲間内で女性教諭を呼ぶ際に「〇〇ちゃん」と、女性教諭の姓名の名を呼ぶという実践は、ジェンダー体制のもとで女性教諭を「生徒化(あるいは幼児化)」させ、「男らしさ」を表現する道具として機能してはいないだろうか。本来指導を仰ぎ敬意を抱く対象であるはずの教師を「〇〇ちゃん」と呼ぶことは、「愛称」として教師への愛着や敬慕を示す行為であると同時に、「勤勉さを女性性と結びつけようとする生徒たちの下位文化」(多賀 2006:35)と連続する「蔑称」を用いて「男らしさ」の確認を行う行為だ、とも言えるのではないか。もちろん、純粋に愛称として用いられることも多分にあるだろうが、中高生女子が男性教諭を「△△くん」と呼ぶ行為がみられる頻度や意味合いと比較して上述の中高生男子の実践を検討すると、ジェンダー体制の構築・維持を企図した表現の一形態と呼ばざるをえないのではないか。

 次稿は「中年」あるいは「大学教員のハラスメント」(レポート課題関連)について書くだろう。さあ、授業だ、授業だ。


参考文献 羽田野慶子、2004、「〈身体的な男性優位〉神話はなぜ維持されるのか」教育社会学研究第75集、pp.105-125。(後ほど更新)



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