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「非モテ」当事者研究の可能性と課題

 本稿では、ぼくらの非モテ研究会*編『モテないけど生きてます』を通読し、先日ユニバーサル哲学研究会なる読書交流会に参加した経緯から、「非モテ」をキーワードとした当事者研究の実践がもつ可能性(およそ社会変革の可能性を指す)および課題を筆者なりに整理することを目的とする。ユニバーサル哲学研究会での対話、特にプライベートな内容には一切触れないことを旨とし、拙稿の大半は筆者が交流会参加に際して作成したレジュメに基づくものである。

*ぼくらの非モテ研究会のTwitter https://twitter.com/himotemotemote?

この課題図書を手にとった経緯、および今回の研究会に参加した経緯について端的に記す。筆者は、男性運動がどういった形式と言説を伴って公共性をもつか(≒公の議論に開かれ、世論形成の機能を果たすか)に関心を抱いて研究活動を開始している。本書を出版する男性たちの集いは研究関心と間接的に繋がるのではないかと考え、本書を購入した。「ぼくらの非モテ研究会(以下、非モテ研)」については、男性たちが「非モテ」をキーワードに当事者研究(注)を行う会合だとして認識していた。公共性という自身のテーマと直接には関係しないコンセプトで活動している、当事者の集い=親密圏を形成する団体である非モテ研には、以前から既存の男性組織にはない魅力を予感していた。この課題図書を手にとったのは、当事者研究であるこの本から、①「非モテ」というプライベートな悩みのリアリティと、②集団で語り合う当事者研究が社会に対して与えうる機能、この2点について学べることを期待したためである。
 1点目のリアリティを伴う学びへの期待に関しては、筆者自身の属性が関係している。筆者自身は非モテ研の活動には基本的に参与できない人間だと心得ている。恋愛経験および性経験があり、疎外感、生きづらさといった感情を感覚していない。他方で、友人たち、とりわけある先輩の「非モテ」の自覚と自縄自縛、そして彼が採った悲しい選択を思うとき、彼らの疎外感と生きづらさに思いを馳せる。プライベートの問題であり他者から承認されにくい「非モテ」のリアリティに、筆者は以前から強く関心を抱いてきたのである。筆者が「非モテ」ではない立場から彼らの感情とその外部構造を視野に収めるとき、どんな実感が立ち上がるのか、本書から学べると期待した。
 2点目の期待は研究起点の問題関心に由来する。研究領域のカテゴリでは親密圏にあたるこの会合が、言論から成る既存の公共圏あるいは大衆の世論に何らかの対抗作用・触媒作用を期待できないだろうか、というのが端的な問いである。個々人に発言する「非モテ」という抽象概念の当事者研究の知見が、社会一般の通念あるいは制度設計に影響をもたらしうるかもしれない、諸々の生きづらさを乗り越えるパラダイムを与える手掛かりになるのかもしれない、という期待をしている。90年代のインターネット空間で生じた「非モテ」という私的で一見センチメンタルな語彙から発した議論が、既存のオフィシャルな言論(=公共性)と並び立つ対抗的公共性の一形態となる、ということもあってよいかもしれない。ここでいう対抗的公共性の定義とは、「従属的な社会集団のメンバーが自分たちのアイデンティティや利害、必要についての反体制的な解釈を組み立て得るような対抗的言説を発明し伝達する並行的な言説=討議のアリーナ(Fraser, 1997=2003)」である。

(注:当事者研究は、「統合失調症や依存症などの精神障害を持ちながら暮らす中で見出した生きづらさや体験を持ち寄りそれを研究テーマとして再構成し背景にある事柄や経験意味などを見極め自分らしいユニークな発想で仲間や関係者と一緒になってその人に合った自分の助け方や理解を見出していこうとする研究活動」として始まった活動のこと。向谷地生良(2020)による。)
 この研究会に参加した経緯は、11月開催のとあるイベントにて西井開さんと対面・協働する機会をもつことによるところが大きい。彼の筆致に触れ、非モテ研がどのような集団なのか理解した上で参加したいというモチベーションがあった。ユニバーサル哲学研究会当日は筆者を含め9名の参加者(女性含む)が出席した。

 本書を通読して得た問いは、以下の二点になろうかと思う。
 一点目は、たぬきさんの個人研究(pp.196-209)から参照する。彼は自身の抱える問題に名前を付け外在化を伴っている点で、最も当事者研究としての側面が色濃いと考えられる。「自己破滅願望の研究」というタイトルが当該の章のタイトルだ。ぶっきらぼう現象の環境要因は簡明に表現されたメカニズム研究として非常に納得できる。他方で、自己破滅願望および自爆型告白のメカニズムの研究は、有意味化こそあるものの外在化が不十分なのではないだろうか。「本当はまだ修復の可能性があるのに、修復するよりも終わらせてしまおうという」「女神に知ってもらいたい」といった心情が宙吊りのまま、「少し楽になる方法」を試す帰結にスムーズに移行してしまっていることが懸念される。有意味化の過程としては「破壊をしながらもすくい上げを望んでいる」ような核となる非モテ意識は、外部の要因と関連させて対処すべき論点ではないかと考える。後ほど検証の手がかりを掴む。
 二点目の問いは、座談会「非モテ研とはどういう場か」から着想を得た。男たちの語る場に生じうる成員間の距離感と、主催者の西井さんに権力が集中する問題と、「ミソジニーの方向にいく可能性(p.270)」、以上の三点が示唆的で興味深い。座談会パートは参加者に認識の一致とズレが朗らかなムードのもとで明らかにされる、面白い章であった。前二者への問いは本書から理解できるが、「女性蔑視の方向へと一気に流れていかないように」ファシリテートする西井さんの心がけは、会の目的と照らして重要な要素と考える。中長期の研究会の目的・理念がはっきりしないことによって、加害(感情)と「ダークサイド」が語られる場がミソジニーの許容に繋がる可能性は十分にある。幸運にも「女性蔑視の方向に一気に流れていかないように」非モテ研が運営される背景の要因は何で、成員間の距離感および権力性はミソジニーの促進/抑止にどう繋がっているのだろうか。当事者研究グループや社会運動一般にも共通に認められるような、集団のコンセプトが揺らいだ結果加害性を持ってしまう問題と、これは地続きであるように感じている。

 この二点目の問いについては、読書交流会のやりとりの中で、西井開さんという誰にも替えがたい主催者(彼らは指導者とも仰ぐ)の存在に支えられるところが大きい、という知見を得た。集団全体としてミソジニーに陥らないようにするためには、西井さんの認めるようなファシリテーターの存在が不可欠であり、それには個々人の成長と承認を要する旨が複数の参加者から伝えられた。筆者自身が考察できることではないと実感したため、レジュメ以上に筆を進めることは避ける。ただ、筆者がとあるフェミニズム研究会に参席した際、「非モテ研のような弱者男性を名乗る集団は信用ならない」というようなフェミニストの女性の痛烈な批判を耳にしたことは鮮烈に記憶している。西井さんの配慮が会の運営にプラスに働いていることは間違いないものの、外部からの視点としてミソジニーを醸成する環境だと捉えられかねないことは、当事者たちこそ認識し会運営に役立てていくべきだと考える。

 それでは立ち戻って、一点目の問いから分析と考察を進める。非モテの自己破滅願望については、読書交流会の中でも議論が発展した。非モテの内在的な感覚では、「恋心を内にしまって引きずっていることが苦痛である」「破滅させることは前進に繋がる過程であり、宙吊りの状況は避けるべき状況である」といった非モテ普遍的な心情が存在することが確認された。たぬきさんの個人研究にあるような「復讐的な要素(p.198)」「最初からうまくいくための道がない(p.206)」といった文章と絡めながら、一層混線した根深い願望であることが示唆される。

 この自己破滅願望について筆者は客観的に何とか繋ごうとする。推察すれば、たぬきさん含む一部の非モテは、成功経験の不在ゆえに自身を肯定する思考回路が想像できなくなっており、恋愛のリセットボタンを「自分が」「早く」「激しく」押すことで非モテの苦痛を一旦終わらせる、という解決法につながっているのではないだろうか。恋愛や性における成功経験が非常に乏しいことが「非モテ」男性の基礎にある一要素であり、既にこれまでにも失敗、あるいは時間切れのような不首尾ばかりを経験してきた人々だ。失敗、時間切れを同じように繰り返したり、恋心を燻らせたままに内燃していたりすることは、彼らの精神衛生上では脱却したい状況なのだろう。そしてその絶望感を自覚していればいるほど、「自分が」「早く」「激しく」関係を破壊し破滅させることを願うのであろう。問題を内在で解決しようとし自身の内部で願望を確認しようとする流れは、たぬきさんの丁重な当事者研究の端に見えた、一種の綻びなのだと考える。

 外在化する視点として、自己破滅願望が感じられるのは身体のどの部位からであるか、ついで他者を媒介する要因はないものか、二点検討することがあってよいように考える。前者について端的に述べれば、自己破滅願望は自分の身体のどの部分に痛みとして現れ、実践してしまうのかだろうか。自分の身体を傷つけるような行動があるかもしれず、願望を肯定するような言語表現に慣れているかもしれない。読書交流会でも交わされた、「戻れないくらい完璧に壊したい」旨のコメントに示唆的なように、行動と言葉遣いに自己破滅願望が現れる様をもう少し認識・描写してよいのかもしれない。
 続いて特に後者について、「モテとかを喧伝する連中(p.198)」「破滅することが前進になる」といった外部の他者からの発信に影響されている認識を当事者研究のパラダイムに組み込むことが、より模範的で洗練された研究になる道ではないだろうか。復讐心、破壊=前進という逆説的観念は、外部からの焚きつけによって起こっている場合も多数あるだろう。「破滅が前進に繋がる」ということを恋愛について実践した経験がない者は、特にそのリアリティを安直に受け止めるのかもしれないが、焼き畑農業を連想させるようなそのロジックは、ゲーム感覚から逃れ出ているだろうか。モテる方法を喧伝する言説、極端な恋愛行動を唆す言説に潜んでいる、既存のジェンダー秩序の内面化あるいは商業化、遊戯化を的確に捉え批判することで、自己破滅を行う願望が他者に媒介されている可能性を低減できるのではないか。

 ここからは、筆者の関心の二点目に基づき、当事者研究の一般化とその可能性について、レジュメに書き連ねた内容をベースに述べる。
 男性運動を研究対象としてその機能と限界を究めたい筆者にとって、当事者研究起点の社会課題が、どのようなプロセスで世論形成しうるのかに関心がある。「非モテ」は個々人が異なる経験をしながら蓄積してきたアイデンティティの問題であるために、当事者たちにとっては構造化・相対化して認識が難しい領域なのであろう。非モテ研の例はそれらが語られ傷が癒える場として非常に稀有であり、互助的な語り合いの場として、既に有効に機能しているものと見受けられる。そこで欲を張って期待をかけると、参加者個人の承認から「非モテ」一般に対する承認へと、その射程を拡大していくことが研究会の重要な使命ではないかと考えている。根幹となる大きな構造に共同研究の射程を向け、構造化を経た批判意識を持つことによって、差別解消、ジェンダー問題の解消に貢献する組織に飛躍することがあり得るのではないか。
 具体的には、家族と学校における「非モテ」意識の土壌について、より一般化した答えを用意してゆくことが方策としてあるのではないだろうか。肌の色、体型、両親の不和、学業不振、吃音、スクールカーストなどの一般的で文化的な非承認の実例が、本書から明らかになっている。個人研究、少人数での共同研究の成果として、それらの数々の蓄積が深刻な心理状態としての「非モテ」を生んでいることが示唆されるのだから、可視化されにくい非承認の構造をより一般的に表明・運動していくエネルギーが社会を動かすことに繋がると信じる。筆者の浅薄な想像力から推察すれば、①家族と学校における優劣の序列づけの文化、②「男性が女性を選ぶ」という歴史の長い蓄積、③1人対1人の相互承認という美しい物語への没入、という三点を挙げる。

 一点目について、家族と学校生活の中での非承認が、彼らに大きな心理的ダメージを背負わせていることが確からしい。「かわいい戦略」「童貞戦略」「不本意出家」といった独特の語彙は、彼らが非承認の網の目から緊急避難するための窮余の策であることが窺える。男性は女性に比して、「魅力」「能力」といったものに比較意識・順位づけを施しやすい文化、心理構造をしている。家族と学校のなかでそれらは特に顕著で苛烈であり、男性集団全体での自身の「順位」に猛烈な自意識が働きやすい土壌がある。これらが上位者と下位者のアイデンティティを強く規定し、その蓄積によって「非モテ」アイデンティティが形成されるのではないだろうか。このような仮説提示を試みながらも、疑問が残る。その疑問とは、家族および学校の文化の中ではなぜ、またどのようにして男性(男子)たちばかりに序列意識が生起/浸透するのだろうか、というものだ。読書交流会の男性たちの語りの中では、「学校では男子の順位付けを強く意識していた」旨の同意が複数名から得られ、女性参加者たちの経験と比較して顕著であった。「男性文化」ともいうべき順位付け/ランキング志向の思考形式は、幼少期に何らかの外部要因によって規定されている可能性が高いのではないだろうか。この生成メカニズムについて筆者は結論をもたないが、推測し検証していきたい。

 二点目について、男性が女性を選ぶという恋愛や結婚市場の構造は、少なくとも20世紀の日本ではスタンダードな文化であった。ジェンダー論で頻繁に述べられることだが、男性は「選ぶ性」だったのである。簡潔に記せば、「男性が女性を選ぶ」という長い歴史を参照した現代の男性たちは、「自身の資質・能力の不足のために女性を選べなくなる」という事態に戸惑い、女性を選べなくなったゆえの相対的剥奪を感覚し、因果応報論(≒自己責任論)を内面化して摩耗しているのではないか。女性一般の例を想起しても、「非モテ」を自覚し生きづらさと重ねて述べる語りは、非モテ研に集まることを必要とする男性たちに偏って存在している。「非モテ女性」たちという集団も一部にはあり筆者の知識と実感が不足しているが、「選ばれる性」の歴史を持ちライフコースの選択が現代になるほど柔軟になってきた女性たちは、進路およびアイデンティティの選択肢を増やしてきている。ここに剥奪感は生じにくい。「男性が女性を選ぶ」というおそらくは近代日本に顕著な恋愛・結婚文化の蓄積が、ジェンダーギャップを解消する時代の潮流に際して、男性集団に順位付けを行い自身を下位に位置付ける男たちの苦悩を伴っているのではないだろうか。
 こうした歴史的反省および現代の潮流を踏まえずして、脱文脈的に「非モテ×生きづらさ」の言説が受け取られてしまうことは、筆者が過去に接したフェミニスト女性たちの憤懣と批判の源になってしまう。当事者研究の試みとして面白く、またクリティカルであるからこそ、社会や文化全体を照射し大局観を持って「非モテ」を語る語彙の洗練が求められる。
 三点目は、「カップル規範」が非モテを規定する下部構造になっているのではないか、という問題提起である。言い換えれば、「1人対1人」で交わされる、他に結ばれることのない強固な相互承認こそが恋愛および結婚である、という美しい物語への没入が、非モテたちの恋愛・結婚に対する心理的障壁を高めてしまっている、というものだ。彼らが頻繁に書き連ねるフィクションのストーリーを巡って、彼らの興奮には異性愛規範は勿論、「単一愛」規範が存在しているようだ。他の誰にも向けない絶対的承認を男女が交わし、その代替不可能性を自覚して「いちゃらぶせっくしゅ(ゆーれいさんの記述より)」を経験することを、彼らは恋愛の要素として捉えているようである。そうした承認に巡り合ってこなかった非モテたちは、相互承認の美しい物語を好み肯定するがゆえに、虚構かもしれないそれらの物語と非モテのリアリティの落差に、絶望しているのではないだろうか。1人対1人の代替不可能な相互承認を重要視するのは非モテの傾向としてあり、一方向的でときに「押しつけがましい」「迷惑」と言われてしまう関係性への執着として、重荷になってしまうのだろう。彼らのカップル規範を有意味化し、外在化させることによって恋愛と性に対しての執着を緩和させることができるかもしれない。

 最後に雑感を述べる。
 本書全体を通して、正統な当事者研究を奇異なトピックで実践した例として、非常に興味深く読んだ。クオリティとして納得できる章、キーワードの命名については、たびたび感心しながら読んだ。特に西井開さんの個人研究および分析には、およそ批判・反感をもつ内容は含まれていない。西井さんが、「非モテ」問題が三重ダルクと相似形をなすと気づき、「痛みや生活のままならなさに少しずつふれていくことの重要性(p.94)」を学び実践する過程に好感を抱いたほどであった。
 一発逆転、不本意出家、「進研ゼミ」の内面化などの用語をはじめ、当事者研究ならではの営みに希望を感じた。同時に「非モテ」従来の重苦しい記述に目を背けたくなることもあった。男の生きづらさとして、長い歴史の中で「選ぶ性」であった男性集団が、ジェンダー格差是正の過程で「選べない例もある」事態を迎え、それに対する忌避感が根底にあると考える。男性たちの「優越志向・権力志向・所有志向(伊藤公雄 1989など)」とどう向き合っていこうか。

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