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苔の森〜”死んでも死なない”

長野に移住した友人を訪ねて八ヶ岳までドライブ。
都内を脱出して、ひさしぶりに森へ。
車を置いて、3分でこの苔の森に入れるってなんてすてきなコース。
気軽に入った森の散歩だったけれど、1時間ほど歩いた先のゴールの絶景がまたすばらしく。紅葉の頃と、雪景色の頃にぜったいまた来よう!と、こころに決める。


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しっとりとした空気に、深呼吸をして。
いのちの網目に包まれる。


苔の森を歩いていて、ふと「死んでも死なないんだね」と言葉が浮かんできて、そんな話をする。
いや、個体として肉体が死んでしまうのは恐ろしいし、周囲のたいせつな人とお別れすることは悲しい。
けれど、すこしおおきな目でふんわりと眺めてみると、そこにはめぐりめぐるいのちの輪がある。
その一端に触れていられると、ほうっと安心感がやってくる。


生きている木も、倒れている木も、
すべてがまたいのちを宿している。
ふかふかの苔に触れていると、なんとも落ち着いた気持ちになる。

わたしの中にも、今生ではもう会うことが叶わない人たちが、しっかりと生きている。
ごはんをつくっているとき、いつもおばあちゃんのおいしいものをつくり出すふくふくとした手を思い出しているし、
ガツガツ仕事をしようというモードにいるとき、戦後にコツコツと事業をつくったマッチョで繊細な祖父のことばを思い出す。
絵を描く時は、日本画を描いていた母方の祖母といっしょにいる気がする。
父方の祖父はまだ生きているけれど、わたしの読書好きは、小さな頃から良質ですてきな本を送り続けてくれたおじいちゃんのエッセンスで造られている。


ほとんどは思い出せないような記憶のカケラ。
それらすべてがわたしをつくる。
その存在の質感はふかふかの苔のようで、思い出すといつもそこにある。

細胞は日々生まれ変わり、入れ替わっていくけれど、結ばれ、流れていくいのちのふしぎ。
わたしをつくり、動かすもの。


森の中にいると、たくさんのいのちとのつながりがよりビビッドに感じられる。
8月後半は低空飛行で、強制的な夏休みのようなモードだったけれど息を吹き返した気分。

ふと気を抜くと、東京でちいさくちいさくなって息を詰めたように過ごしている自分を見つける。
身体の感覚を忘れて、急加速した思考がアラームを鳴らして駆け巡っているみたいになって疲れ果てているようで。


意識をひろげて、あのふかふかの森の空気や、山頂での爽快な風を纏って日々を送ることを選びたいものです。

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