ん?昭和初期のメディアは、SNSのエコーチェンバーと同じか?

エコ―チェンバー(Wikipedia参照):同じ意見を持った人達だけがそこに居ることを許される閉鎖的なコミュニティもあり、そのような場所で彼らと違う声を発すると、その声はかき消され、彼らと同じ声を発すると、増幅・強化されて返ってきて、「自分の声」がどこまでも響き続ける

昭和の初期、先の大戦へ突入したある日、記事抜粋:「海軍報道部の平出英夫大佐が『高い調子で』発表文を読み上げるにつれ、記者たちから『わっ、すごい』『やったぞ!』『万歳万歳』などと声が上がった。記者は『耐へ切れない歓喜に鉛筆さへもかなぐり捨てた』・・・」

つまり、民衆もメディアも、そして、政府も皇室も、あの日はどこもかしこも、同じ声や考えが木霊していたということ。そして、かつてない大敗北を経験する。その後の木霊は「民主主義だっ!」となる。

朝鮮戦争特需を経て、高度成長時代になれば「米国に追いつき追い越せ!」である。これは、わたしの子供のころによく聞こえた木霊だ。

バブル崩壊後、「失われた〇十年」という失意の木霊が重く波打つ。

「SDGs!」と聞こえたり、「戦争・・・?」と戸惑い気味に聞こえたり、「少子高齢化」と口ごもったような木霊が、さまざまに響き揺れ動く。それが、令和だろう。

メディアが民衆を覚醒し、覚醒した民衆は同じ場所を好み、同じ声で同じ考えを増幅させる。だが、少しの間を置けばむなしく消える木霊達。なにも、残さない。

民衆は声を出せる元気がある。だが、近未来の実情はそれを許さず、声も出せない状況にまで追い込まれるのではないか。木霊しない社会。これはこれで、とても恐ろしい。その様相が見えてくるのが、令和六年・・・。鬼が笑うな、きっと。

#日経COMEMO #NIKKEI

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