妄想:超共産主義、日本はどうする

****(以降、Wikipediaから抜粋含む)

マルクス・レーニン主義においての共産主義は、「能力に応じて働き、労働に応じて受けとる第一段階」である社会主義より段階の高い「能力に応じて働き、必要に応じて受けとる段階」を目指す。

マルクス・レーニン主義の意味での共産主義に反発する社会主義者から社会民主主義、議会制民主主義と反共を唱える民主社会主義が生まれた。

なお、日本語訳の「共産主義」の「共産」は、「公共が産業を行う」ことから作られた言葉である。

エンゲルスは「空想から科学へ」の著作の中で、「・・・生産が極限まで社会化しながら取得は依然私的なままであるという『資本主義の基本矛盾』を本書(マルクス著 資本論 1巻)で定式化した。この基本矛盾によって資本主義は次の社会(社会主義)に移行せざるを得ない・・・」と主張。

(ここから、妄想)

つまり、労働者(ニンゲン)の生産は社会全体に影響を及ぼしている。だから、労働による報酬は社会の必要に応じて支払われるべきである。では、労働者の生産とは何ぞや? で、労働に対する報酬は「必要の定義」によって決められるということか?

「必要から生産」が求められ「生産による報酬」があって、その報酬から「必要の消費」がうまれ、それにより再び「消費から生産の必要」が生まれる。こうなると、「ニンゲンはどこに消えた?」となる。

「公共が産業を行う」ということであれば、労働者という存在は見えない。仕組みの中の一つの歯車となって、近隣の歯車が回れば、自身も回るという現象の中に置かれる。

だったら、生産・消費の中にニンゲンを放り込んじゃえ!

で、ニンゲンは生活をしている。生活が中心である。食うために(必要を)買い求めなければならない。その資金のために報酬を得ようとする行動(労働)を起こす(労働トイウ意味デハ、社長サンモ労働者)。生産に従事することとなる。「能力に応じて働き、労働に応じて(報酬を)受けとる」ことができたなら「生活に必要」な消費(必要の消費)を行って「生活を成り立たせる(行動目的の達成)」ことができる。そして、次の生活のために「必要」が生まれる。この繰り返し。

近隣の歯車がどう回ろうが「自身の生活のため」に行動する。ここが、現在までの社会主義(一部の共産主義)との相違点となる。

社会主義より段階の高い「能力に応じて働き、必要(生活)に応じて受けとる段階」であればどうか。

生活を成り立たせるための資金を得るために労働する。労働の能力に応じて報酬がでる。それを、労働の能力に関わりなく生活に必要な報酬が得られる社会、とはなにか。

(労働の能力に関わりなく)・・・じゃあぁ、労働・生産をニンゲンがやんなきゃいいんでしょ?

ということで、人工知能とロボットや改造生物に労働・生産を担ってもらい、その生産物から得られる利益で生活に必要な報酬を受け取る仕組みを作ればいい。

ニンゲンが唯一の労働として行うのは「人工知能・ロボット・改造生物(新労働者)の使用者(権利者)としてふるまう」ということ。社会全体では「権利者認定」が主な行政となる。新労働者の利益は権利者の利益となり、新労働者の働かせ方によって、権利者の生活の必要を賄う。

よって、超共産主義では「能力に応じて新労働者は働き、権利者の必要に応じて報酬を受けとる」新しい段階へと昇華するのだ。

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なんだか、つまんない退屈な妄想をしてしまいました。ぼくの小さいころの「共産主義」って、こわもての "論破屋さん" 的存在でしたが、今の時代は、「"学習" をさぼった庶民にも近い存在」という感じがしています。

あたらしい時代に足を踏み入れた今、人工知能やロボットや改造生物が闊歩する世の中で、超がつく「共産主義」的思想は生まれるのでしょうか。すこし、観察していきたいと思った次第。

#日経COMEMO #NIKKEI

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