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ふたつの「フェミニズム」の潮流に、我々はどう対抗していくべきか

「専業主“夫”を養え」はなぜ叩かれるのか

森発言から一週間くらい経った頃の話ですが、長らくミソジニー・反フェミニズムにおいても少数派だった「(女が地位向上を目指すなら)専業主夫を養え論」が、力を強めてきました。とはいってもツイフェミなどからはこの論に対してバッシングの嵐が毎度のように飛んでおり、今回も例外なくバッシングされたわけですが。

ただ、この論への女性からの批判をよくよく見ていくと、「理は通っているが養える女の少なさ(経済的にも心理的にも。特に心理的要素は「負の性欲」とも関連がある)から現実的じゃない」に近い論と、「男なんだから養う側から降りるな(そもそも共働きさえ受け入れないようなタイプ)」に近い論に分かれます。前者は研究者やライターなど実名で活動している人に比較的多く、後者は匿名で発言している人に比較的多いです。

これは、フェミニズムを「エリートから発信されているもの」と「草の根から発信されているもの」に分けたときに、違うベクトルを向いているということで説明はつきます。エリートから発信されているものは、基本的に社会における地位向上をどう進めていくべきかに焦点があり、草の根から発信されているものは、基本的に家庭の、ひいては台所の視点からどう女の自由ないし権利を守るべきかに焦点があります。

この記事を書いた時点では、エリートのフェミニストは草の根階層に負けて死んだと思っていましたが、森発言のあたりからちょっと盛り返してきた感じがあります。ここで改めて、両者の位置関係を考えてみましょう。

「名誉男性」というワードは、「フェミニズムに賛同しない女」という意味のレッテル貼りとして用いられていますが、草の根から見てエリートのフェミニスト(社会的地位を得ている女性)は「男社会に適応した名誉男性」に見えますし、逆にエリートから見て草の根のフェミニスト(多くは強い男に守ってもらう、殊に日本では専業主婦として地位の高い男に養われることを望む)は「結局はジェンダーの固定化を目指している名誉男性」に見えるのです。

はたから見れば、これは足の引っ張り合いにも見えます。しかしながらこのベクトルの向きは、完全に真逆ではありません。どちらも「女の自由、権利、そして幸福のために進めなければならない」という認識では一致しています。両者はタイトルの図でいう真上の方向に、少しずつ引っ張っているのです。

反フェミニズムのあるべきベクトル

その上で、フェミニズムに反抗する勢力が取るべき方向性は、真下に向かう黒いベクトルのはずです。本来右側(≒ジェンダー保守主義)にも左側(≒ジェンダー自由主義)にも振れるべきではないものです。

しかし実際のフェミニズム批判においては、まだまだ右下への方向性が強く残っています。すなわちフェミニズム(フェミニスト)といえば「専業主婦の価値観を否定して地位向上を目指そうとするエリートフェミニズム」しか指していなかった時代、そして反フェミニズムの間でその方向に社会が進むことによる弊害しか議論されていなかった時代を引きずって、ここにこそ真っ向から対抗しようと、青いベクトルの向きに引っ張っているところがあるのです。

例えばこの人。ネットでのフェミニズム批判論客ではレジェンド級の古参に当たる人です。彼は上の記事で「専業主夫を養え論」の大元の提唱者である赤木智弘氏に触れていますが、フェミニズムを根本から否定できないから出てきている言葉だとして批判的立場におり、「フェミニズムは最初から間違っていた」ことを認めるべきだと主張しています。

先に挙げた『若者を見殺しにする国』の2章は「私は主夫になりたい!」と題され、ご本人がブログで自分を養ってくれる女性を募集しても、反応が芳しくなかったことを嘆いています。
私は同書の初読時、「主夫になりたい」は一種のアイロニー、思考実験として言っているのかと思っていたのですが、しかしこうなると「フェミニストが男性を救うべき」というのは、「主夫の普及に尽力せよ」ということのように思えます。
先に、赤木氏の「バブル以降、男性は強者」とのフェミのロジックが崩れた、との指摘をご紹介しました。
それは大変正しいけれども、ならば「フェミニズムは最初から間違っていた」とするしかない。しかし、赤木氏はどうしてもフェミニズムを根本から否定することができない。そこで「ジェンダーフリー」だけは延命させようとした。「強者となった女性は、主夫というジェンダーフリー的な存在に理解を示し、助けよ」というわけです。
しかしそのため、かえってフェミニズムの抱えた矛盾を露呈させることになってしまった…本件は、そんなふうにまとめられるように思います。

しかし文脈的にそれは「性意識をフェミニズム以前に戻せ」と同義のものです。これでは「専業主婦になって地位の高い男に養ってもらうことを望みながらもフェミニズムを訴える」勢力、すなわち草の根から発信されているフェミニズムの主流に対立することはできません。しかも彼は(引用外の部分で)そういう女がまだまだ多いからこそ「戻す」ことに意義があると明言してしまっています。兵頭氏自身こそ、フェミニズムを根本から否定することができないのです。

もっと「感情的」になれないものか

あともう一つ言えることとして、「フェミ≒女⇒感情的、反フェミ≒男⇒論理的」というジェンダーバイアスも大きく関係しています。つまり、フェミニズムと反フェミニズムの対立は、フェミニズムが感情的な主張になっているところを、反フェミニズムが論理的に批判している構図になっているという指摘があるのです。

読者の皆さんにも考えてほしい例として、日本においてミサンドリーや "Toxic Femininity"(海外のMRA=男性権利運動において、フェミ側が提唱した「有害な男らしさ」= "Toxic Masculinity"の対抗概念として提唱されているもの)は「負の性欲」と称される概念になっていますが、これを提唱したところで多くの反フェミ論客は次にどう理論展開したでしょうか。「性欲と同じで女の本能に起因するものだから仕方ない」としてそれを「受容」すべきという方向ですよね。論理的に批判できないものは受容せよと。あるいはそれらの下位論になっている各論に対して批判していけばよいと。私はそのような念を感じます。

しかし、当然のことですが、それを受容しても何の問題の解決にもなりません。むしろ事態を悪化させかねないでしょう。そもそもフェミニストらが「女の本能のままに生きる権利」を主張しだしたら、どうやってそれに抵抗するつもりなんでしょうか?

フェミニズム批判も、もっと感情的になっていいはずです。現状オピニオンリーダーのほとんどは論理的な批判に終始している感じがあります。小山晃弘氏やrei氏、匿名用アカウント氏などそうでもない論客も増えてはいますがやはり依然として根本的な部分の「受容」から抜け出せないところがあるように感じられます。

たとえ問題が女の本能に起因しようとも、我々は徹底的に戦っていかなければなりません。自分たちの人権論的公正性を確保するために。決して、社会を維持するためにでも、奪われた地位を取り返すためでもなく。

まずは「セックスストライキ」から

さて、ここまで「専業主夫を養え論」に対する私のスタンスは表明していませんでした。基本的に私は、この論に賛成も反対もしません。そもそもこの論は「専業主婦になりたがる女」へのアンチテーゼの意味合いが濃いものだと思っています。だからこれを本気で主張している人も専業主夫が現実的でないことは折り込み済みなのではないでしょうか。

日本における上昇婚志向は、女性たちの専業主婦願望によって(ジェンダー解放の進んだ)海外諸国とも比べ物にならないほどまで高くなっています。これは共働き(=女性の労働市場への流入)を進めることで相対的に上昇婚志向を弱める効果があったかもしれないことの論拠でもありました。

そのうえで必要なことは、「専業主婦になりたがる女」及び「その夫婦構造の復活を求める勢力」へのセックスストライキ(逆セックスストライキ)だと思うわけです。

(この本の日本語版はいつ出るんだろう…?)