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ハイドロプレーニング 【だいたい2000字小説】

ハイドロプレーニングってカッコいいじゃん? 響きが。いや、字面もかな。
なんて話していた友人の言葉が、私にはよくわからなかった。
もしかしたら、マルクス=アウレリウス=アントニヌスを覚えたての頃むだに連発していたのと同じ感覚で話しているのかもしれないと思った。


6月も終わりそうだというのに、ついさっき梅雨が始まったかの如く、やっとしっかりとした雨が降って、降ってきたかと思えば警報が出される始末で。
そうでなくても巷での新型感染症の流行を思えば自宅にいるのが安心安全なのだけれど、鼓膜が痛んで息が詰まる。
ああ、こんな気分に運転は危ないよなあ、なんて一瞬頭の隅によぎったけれど、運転席のシートに埋れてしまえばすぐ忘れる。埋もれると言っても、軽自動車だけど。包み込んでくれるほどの上質なシートでもないけれど。

キーを回してエンジンをかけて、深呼吸をひとつ、空間に放った。
湿度たっぷりの空気が消臭剤の柑橘の香りを纏って、肺に流れ込んでくる。
ナビに、日常のワイドショーがざわつく。
それを、手の甲に日焼け止めを擦り込みながら流し見た。
AVボタンを操作してBluetoothを選択したあと、スマホのオーディオからプレイリストを選択する。「☂️雨の日☂️」。なんのひねりもない。

ほんの少し緩んだ雨足が、それでもフロントガラスに粒を落とす。
ワイパーは、思い出したかのようなタイミングで行き来を繰り返す。
ウィンカーのカチカチカチ、という音が、雨粒とシンクロする。なんて素敵なことは起きなくて、遠くの曇り空に目をやる。灰色。知ってたけど。知ってて出てきたけれど、白に近い眩しい灰色。
すぐ前の車両が、直進車の合間を見計らって上手に右折していった。
シャーーって、水飛沫をあげながら。
私には、そんなことできない。
大人しく赤信号下に現れるであろう緑の右矢印を待つ。カチカチカチ。
ウィンカーの音が、スピーカーから流れるスネアのリズムと重なる。カチカチカチ。
裏で、バスドラが響く。足首が、動く。手首が、……。
そんな遊びをしていたら、信号が赤になったようで、後ろからパッパッと短くクラクションを鳴らされた。焦る。
瞬間、右足に力を込めた。
エンジンが低く唸って、メーターがギュンと「3」を超える。
タイヤが、キュルルルルと鳴る。
路面の水が、ドシャバシャと音を上げるのが遠く聞こえた。
私は、進んでいなかった。
全然、進まない。進まなきゃいけないのに、こんなにアクセルを踏んでいるのに、一ミリも進んでいない。同じ場所で、不安定に上滑りしているだけだ。
前に進むつもりで置いてけぼりを食らった気持ちは、焦って、いつも見ないふりをしてきた心の奥底の焦りまでくすぐってきて、何だか泣きたくなった。
でも泣いている場合じゃないから。
アクセルを一旦緩めて、路面が静かになったのに耳をそばだてる。
ああ、これか。あれか。
「カッコイイじゃん?」
友人の言葉が木霊する。
全然カッコよくないよ。ただただ焦るだけじゃんよ。
私は、再度、慎重にアクセルを踏み込んだ。タイヤの溝が地面を捉える感触を、足裏から感じ取ろうと努めた。
車が、ゆっくり動き出して、私を右前方へと押し出す。
私は、ハンドルを緩やかに回す。
どうやら上手くいったみたい。
脇にじとりと滲む汗を感じた。


私だけじゃない。
いろんなことが、上滑りしていく。
ルールも、命令も、声も、言葉も、音でさえ上滑りしていく。キュルルルル。
それはきっと雨のせいだし、梅雨のせいで、あるいは新型感染症のせい。
自分のせいだなんて思いたくないし、関係ないよって言いたいし、お酒のせいだ、あいつのせいだ誰かのせいだ、もう無理だって叫びたいのに、叫べない。どうせ届かないし。

どこに? なにに? 誰に……??

同じ場所を上滑りしたまま、どこにも進めないね、私たち。
でもきっと、あの人はそうじゃない。あの子だって違うかも。
いつもの夜と同じように、今夜も、美味しいもの食べて、美味しいお酒飲んで、気の置けない人たちと談笑して、あったかい湯船に浸かって、ふかふかのお布団で眠るんだろうな。
いろんなことが上滑りしてちっとも進んでいなくたって、痛くも痒くもないんだから。
なんたって、安心安全なんだもん。


「思ってるより、ずっと遠くまで行けるのよ」って、ドラマのなかで運転する女性が言ってた。
あれはもっとポジティブな意味だっただろうけれど、随分、遠くまで来ちゃったな。まだ走らせて10分くらいだけど。
そんなこと考えてたら、また交差点にさしかかる。
冠水しかけた交差点を、慎重に行き交う車両たち。
一段と車体の低い、ぶっといマフラーを尻尾にした白いセダンが、横断歩道の前で減速している。ドゥルン、と煙をふかした。車体の脇から水飛沫が上がっている。ドシャバシャ。キュル、キュルルルル。
雨足が強くなってきて、運転席にどんな人が乗っているのかも見えない。
もしかしたら、あの人もいますごく焦ってる。
上滑りして進めなくて、ズブズブ沈んでいきそうで、必死に抵抗してる。
そうして小さく抵抗するしかないんだな、みんな。


多分きっと、明日も雨。

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