ひつじのおとしもの

ある日、仕事から帰ると玄関の前に巨大な黒い塊が落ちている。
私は半額シールの付いた寿司が偏らないよう、慎重にビニール袋を地面に置くと、右ポケットからiPhoneを取りだしてそれに光をあててみる。
画面を開くと恋人からのLINEの通知が目に入ったが、取り急ぎ後回しにする。
そのくらいは、私にもできる。
黒い塊は光にあたっても黒いままだが、よく見ると僅かに、しかし確かに動いている。
足元を照らす。
四足歩行だと分かる。
生きているらしいそれは私が先日植えた玄関先の花を食べている。
のそのそ、あるいはもしょもしょといった擬音がぴったりだと思う。
「それ、その花、毒のある花とかだったら、どうするの」
黒い塊はこう答える。
「毒があるかないかは匂いを嗅げば分かる、そういう風にできている」
そういう風に出来ているのならば、そうなのだろうと思う。
一歩、さらに一歩と近づくと黒い原因がべったりとへばりついた泥であると分かる。
私はそれを部屋にあげ、風呂場で洗ってやることにする。
「時間も遅いから」
私が口に人差し指を当て目配せをすると、それはこくんと頷く。

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私が寿司を冷蔵庫に入れ、カーテンを閉め、うがいをする間、それは大人しく風呂場にいる。
ふと、ユニットバスだったら入り切らなかったかもしれない、と思う。
ズボンの裾を捲りあげ、ぬるま湯で全体を濡らしながら泥を落とそうと試みる。
しかし、すぐ頑固な汚れに降参しボディソープを使うことにする。
「グリーンアップルとラベンダー、匂い、どっちが良い?」
「ラベンダーがいいね、僕の故郷の花だから」
スポンジで泡立てながらそれの話を聞く。
「僕は羊放牧場から逃げてきたんだ」
汚れが酷く泡立ちが悪い。
「ごめんね、ちょっと強くこするけど」
それはまた、こくんと頷く。
「仲間が売られていくのを見たんだ。僕らはどうやら食べられるために生まれらしい。仲間たちは受け入れていたようだが、でも、僕はうんざりだ」
4度目の洗い流しでやっと本来の白さが確認できる。
「頭を洗うから少し目を瞑っていて」
それは返事こそしないが、大人しく従う。
「聞いた話、僕と同じところで育ったヤツらはみんな“サイゼリヤ”というところに売られていくらしい。数ヶ月前僕のところを訪れたスーツ姿の若者がそう言っていた」
バスタオルで水を拭き取りながら私は答える。
「驚いた、サイゼリヤを知っているの」
それの毛はスポンジのように水を吸収し、いくらふき取ってもポタポタと水滴が落ちる。
あれよあれよというまに、浴槽の隣にバスタオルの山ができる。
「あぁ知っているよ。僕を育てた爺さんに聞いたら説明してくれたのさ。君たちの世界で言う、超高級レストランの事だろう。僕らは羊の中でもそんじょそこらのヤツとは違う。そう、一流のエリートなんだってね。仲間たちのことは残念だが、同じ場所で育った者同士、その点誇らしく思っているよ」

私は何も言わない。

「...本当は、僕も分かっているんだ」ドライヤーのスイッチを押す直前、小さくそう聞こえる。
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乾いたそれは2回りほど大きくなったように見える。
動く度、白くふかふかの毛が甘く香る。
それは嬉しそうにクルクルと回転してみせると、そのままの勢いで布団の上にどさっと寝転ぶ。
「どうやらここは天国のようだね」
「毛布が巻きついたみたいなからだをしてるのに、布団を好むのね」
私がそう笑うとそれも一瞬考えてから、「確かにそうだ」と笑う。

私は冷蔵庫で冷やされ少し固くなった寿司を食べながら、恋人のLINEを開く。
今週末の花火大会には、行けなくなったらしい。
私が彼とする約束は、その殆どが果たされない。
破るための約束をする時、それでも彼は「楽しみだ」と言うし、それでも私は「楽しみね」と返す。
どうしようも無いままごとだと思う。
それで、良いとも思う。
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25時を回り、電気を消してベッドに入る。
私たちは、明日からのことを考えなければならない。
「あなたはこれからどうするの?どこか、行く宛てはあるの?」
それは私に背を向けたまま答える。
「僕は逃げ出してきた場所に帰るよ、ずっとこのままという訳にも行かないし」
「でも、戻ったら食べられてしまうだけよ」
「それは、仕方がないよ。僕たちはそういう決まりなんだ」
「そういう決まりって、なぜ受け入れてしまうの。どうしようも無いの?諦めてしまっていいの?」
「君も、そうやってきたんじゃないの?」
それは静かに、でも確かな意志を持ってぴしゃりとそう言う。
「まぁ、向こうの暮らしもそう悪くは無いのさ。いつか食べられるとしても、最後には“超高級レストラン”に並ぶわけだよ!僕は、こう生まれたからには本望だと思うよ」
私はまた何も言えない。
「僕は君に感謝してるんだ、柔らかい布団も、暖かいお風呂も、向こうじゃ経験できないからね。でも本来の居場所はここじゃない、ただそれだけの話なんだよ。最初からそこに意味なんてないのさ」
それが、本当になんでもないみたいに話すから、私は、私は何も言えない。
「それじゃあ、おやすみ」

時計の秒針が、重く、全身に響く。
私を責め立てるように脈を打つ。
お前は明日からも生きていくのだ、と思い知らされる。

部屋の電気を消していて良かったと思う。
それの表情を見てしまったら私は。

真綿のようなそれの毛を優しく撫でると、私は目を瞑る。
早く眠りにつきたい。

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翌朝目を覚ますとそれの姿はもう見えない。
私はいちばんに、安心する。
私にはどうせお別れをする勇気も、優しさも、誠実さもない。
ただ失ったものを、そうとして受け入れることしかできない。
これで良かったと思うための証拠を、いつも必死になって集める。

朝の光がレースのカーテンから漏れだし、フローリングがキラキラと光る。
ぜんぶ、まやかしだ。


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LINEの通知音がなる。
天井を見上げたまま、私はいつまでも体を動かすことができない。
自分勝手に涙があふれ、指先が冷たい。

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部屋に残るラベンダーの香りが、私のずるさを許さない。

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