正解を諦めることは妥協なのか

正解と成立というのは、近いようでとても遠いと感じることがあります。

もちろん時と場合によるのですが、とても近いと感じることもあれば、とても遠いと感じることもあります。

同じこともあるのですが、全く別なこともあるのです。

正解というのは、読んで字のごとく、正しいということです。

ただ、正しいからと言って、それで成立するかと言われればそんなことはありません。正しいことであっても、成立しないことがあります。

正しさというのは、人によって違います。同じ人でも時と場合によっても違います。

正しさというのは、変わるものなのです。絶対的な正しさや、普遍的な正しさというのは、たしかにあると思います。

道徳というよりは、倫理に近いかもしれません。例えば、人を殺してはいけないというのは、正しいことだと思います。

正しいことなのですが、ニュースなどを見ているとその正しいと思っている感覚が揺らいでしまいます。

不良のケンカで人が死んでしまうというのは、悲しいことですが起こってしまいます。ケンカでそこまでしなくてもと思う自分がいます。

同じように、親が子を殺すとか、子が親を殺すというニュースを見かけることもあります。いったいどんな事情があったのだろうと考えてしまう自分がいます。

人を殺してはいけないという、おそらく絶対的で普遍的な事実なのですが、不良のケンカでは、それが絶対的で普遍的と感じる一方で、親子のことになると、事情があったのだろうと考えてしまう自分がいることに驚きます。

自分の感じ方に驚くというのは、人を殺してはいけないという正しさと、人を殺してしまうほどの事情があったのではないかと思う正しさが、自分の中に共存しているということです。

どう考えても人を殺してはいけないというのが正しいことであるはずなのに、その正しさを主張することができない自分がいることに驚く感覚です。

これは、正しさを追い求めることについて、諦めているということとは少し感覚が違うと感じます。諦めているというよりは、別の正しさを見つけてしまったと言い換えた方が良いかもしれません。

人を殺すことが正しいと言っているわけではないのですが、そうしなければいけないような状況に追い込まれてしまったのではないかと想像してしまったと言い換えると良いのかもしれません。

ここで感じたことは、正しさというのは1つではないということです。これこそ普遍的なことだと感じます。

正しさというのは、たゆたっているものです。正しさを諦めるというのは、妥協ではありません。正しさを諦めるときに、それを妥協だと感じてしまうのであれば、それは自分の正しさを疑っていないときです。

自分の正しさを疑わないとは、それはあまりに傲慢だと感じます。

厳密には、自分の考える正しさを諦めることを妥協と捉えてしまうことが傲慢だと感じます。

自分の考える正しさが、絶対に正しいなどと思えること自体が、尊敬できることではあるのですが、その絶対的な正しさというのは、他人の正しさとどう折り合いをつけるのかということしか頭にないのではないかと感じます。

自分の正しさと他人の正しさというのは、基本的に比較できないものだと感じます。正しさを比べることは難しいからこそ、お互いの正しさをどのように尊重するべきかを考えなければいけないのです。

いわゆるwin-winの関係を作るということも、お互いの正しさを尊重する方法の一つです。そこには妥協ではなく、正解の先を見つけるための努力が含まれています。

ただ単に自分の正解だと思うようにいかなかったからとはいえ、それを妥協と切り捨ててふてくされている場合ではないと感じます。

もし、妥協をしているのであれば、正解を選ばないことでは無く、あえて不正解を選ぶことです。明らかにまちがっていると感じることを選ばなければいけないのであれば、それは妥協と言っても良いです。

不正解を選ぶのではなく、別の正解を探すことを諦めてはいけないということです。

誰にでも自分が正しいと思いたいことがあります。まちがっていると思っていることをやるというのは不本意なはずです。

そのような状況を作り出しているのは自分かもしれません。または、環境かもしれません。そのような状況のときに、どのようなことをすれば不正解を選ばなくても良くなるのかということを考えておいた方が良いです。

ここまでを整理すると、正解を諦めることが妥協ではなく、不正解を選ぶことが妥協です。

誰にでも自分の正しさというのがあって、それを押し通すことが全てではないということです。

自分の正しさを押し通すということは、他の誰かの正しさを否定することにつながってしまう可能性があるということを忘れてはいけません。

それを忘れてしまうと、自分が正しいと思い込んでしまって、傲慢さが止まらなくなってしまいます。

おそらく大切なのは、自分の正しさが、本当に正しいのかどうかを考えなければいけないということです。

自分の考えが正しいかどうかというのは、常に自分自身に問いかけておかなければ、正しくなくなってしまう可能性があります。

古い考えと、新しい考えがあり、昔は正しかったとしても、今は正しくないことというのがたくさんあります。

そのため、正しさは常に変わるということです。厳密には、変わる正しさと、変わらない正しさがあるということです。

そのため、自分が正しいと信じていても、その正しさがまちがっているというのはよくあることです。

自分の正しさが絶対ではないと考えておくと同時に、まちがえた後にどうカバーするかを考えておかないと、まちがったまま進んでしまうことがあります。

まちがったときの軌道修正は、早ければ早いほど良いです。まちがえることも、撤退も、どちらも前に進んでいるかどうかという意味では良いとは言えないかもしれません。

ただ、どちらも必要なことです。まちがえないことだけを考えているということは何もしないことです。すでに分かっている正解だけを選んで、道を踏み外さないようにします。

もちろん、それでうまくいくこともたくさんあります。むしろ、それでうまくいくことの方が多いかもしれません。

ただ、新しいことをしてみるのであれば、必ずまちがえることがあります。新しいことというのは、誰も答えの知らないことだからです。

たぶん、大切なのはまちがえないことではなく、まちがえたのであれば、すぐに撤退するか、別の道を探すことです。傷口が広がる前に、できる限り小さい状態で手を打たなければいけません。

どんなことでも、新しいことをするのであれば、いきなり正解を見つけるのは難しいものです。もしかすると、正解を見つけているのかもしれませんが、それが正解なのかどうかも分からないことが多いはずです。

後になって、色々なことが分かることで、初めてそれが正解だったのか、不正解だったのかということが分かるのです。

たぶん、正解かどうかというのは、あくまで結果論であり、後から考えれば良いことなのではないかと感じます。

それよりは、その瞬間に成立するかどうかを考えた方が現実的だと感じます。現実は妥協の産物かもしれませんが、その妥協によって何を生み出すかは、人によって違います。

1つの正解を見つけるのではなく、できる限り全員が納得できることを見つけることの方が正解であるような気がします。

簡単な道ではないかもしれませんが、この道を諦めることの方が妥協だと感じます。

よろしければサポートをお願いします!いただいたサポートはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます!