まちがっていても、やらなければいけないことはあるのか
正しいことをやるというのは、正しいことのように思います。また、良いことのように思います。おそらくそうなのだろうと感じることが多いです。
ただ、正しいことばかりをしているかと自分に問いかけてみると、意外とそんなことはありません。
ジャンクフードが体に悪いということはあちこちで言われているにもかかわらず、どうしても食べたくなることがあります。ついついふとした瞬間に食べたくなって、食べてしまうのです。
また、ダイエットのために運動した方が良いにもかかわらず、ついつい後回しにしてしまって、「明日にしよう」と思うこともあります。そして、ずっと運動をすることは無いかもしれません。
正しいことをやるというのは、正しいことで、良いことなのかもしれません。ただ、それができるかどうかというのは、全く別問題だと感じます。
もちろん、それは完全に言い訳だという人がいるということも理解できます。ただ、やろうと思っても、ついつい楽な方に流れてしまうことは誰にでもあるのではないかとも思います。
正しいことをやるのか、まちがっていることをやるのかというのは、個人の判断です。自分が正しいことをやろうと、まちがっていることをやろうと、突き詰めると自己責任です。
同じように、誰かが正しいことをやろうと、まちがっていることをやろうと、それはその人の責任なのです。
そのため、責任はその人にのしかかってくるのであれば、他人かとやかく言うことではありません。
ここまでは誰もが感じていることだと思います。自分に関係があることなのか、関係が無いことなのかというのは、誰もが線を引いているからです。世の中の全てのことに対して当事者意識を持つというのはとても難しいというより、ほぼ不可能なはずです。
問題なのは、お互いに正しいことをしているという場合です。むしろ、この場合の方が多いと感じます。
お互いに正しいことをしているにもかかわらず、その正しさが対立してしまうからこそ、争いが起きてしまいます。
戦争などはまさにお互いの正しさの衝突だと感じます。
もちろん、侵略をして略奪をするような戦争はどちらかが一方的に火があるという場合もあるかもしれません。しかし、お互いが正義のために戦うという場合もあり、とくに宗教戦争などはその傾向が強いと感じます。
戦争などのように大きな事例でなくても、日常でも同じようなことが起こります。
同じコミュニティに所属していても、立場が違えば発言の内容は変わるはずです。リーダーとリーダー以外では考えていることが違うかもしれません。
リーダーはコミュニティの存続や発展を望んでいるかもしれませんが、リーダー以外の人はコミュニティがどうこうよりも、自分が楽しければ良いと考えているかもしれません。
そのため、同じコミュニティに所属していて、同じ方向に進んでいるようでも、考えていることが全く違うということはあり得るのです。
仕事においてもそうです。会社はピラミッド型の組織が多いです。官僚制とも言えます。そのような組織は部や局などで様々な部署が分かれています。
そして、その部署の間の対立というのがかなりの割合で発生します。ただ、どちらが正しいとか悪いという判断は難しく、どちらも正しいこともあるのです。
それぞれの正義があるということです。
むしろ、絶対的な正義があるのであれば、そもそも裁判などは必要ありません。みんなの価値基準が違うからこそ、裁判が必要なのです。
つまり、誰の価値基準で物事を考えるかによって、物事の見方が全く変わってしまうということです。
価値基準が違うからこそ、お互いの考えが対立してしまうことがあるということです。
この問題を突き詰めると、正しいことをやるとか、まちがっていることをやるという考え方ではなく、やるべきことをやるということに尽きると感じます。
利害関係の調整をしていると、正解と成立は違うと感じることが多くあります。正しくても相手の主張に対して衝突してしまっていては、その後の関係が悪くなるので、短期的には正しいかもしれませんが、長期的には正しくないかもしれません。
そのため、まちがっていても成立させることにより、短期的には正しくないかもしれませんが、長期的には正しいこともあるということです。ここでの正しさというのはメリット感に置き換えると良いかもしれません。
作物を早く刈り取ると少ししか収穫できませんが、作物を長く育てると多く収穫できる可能性があるということです。
正しさが異なるのは理由があります。ここまでに出てきた価値基準が違う場合、それと、情報の問題があります。
良く知らないという問題があるということです。人は知らないものが嫌いということもありますが、それだけではなく、相手のことをよく知らず、思い込みで判断してしまうこともあるということです。
相手のことが嫌いだと思っていたけど、飲みに行ったら意外といいやつだったという話はたくさんあります。情報が不足している、もしくは、偏っている場合などは、単に相手のことを思い込みで嫌っているだけだということです。
正しさが異なる理由は、価値基準が違うか、情報が不足しているかのどちらか、あるいはどちらもということです。
それでもお互いの正しさを認め合えば対立することなど無いのですが、なぜか対立することがあります。
それは価値基準が変わっていなくても、発信する情報は変わることがあるからです。指示が変わることがあると言い換えても良いかもしれません。
時と場合によって考え方が変わるというのは、良い面と悪い面があります。良い面というのは適応力があるとか、融通が利くと考えることができます。悪い面というのは、その反対です。
ただ、考え方に一貫性があるというのは、それはそれで良いのかもしれません。これは本当に時と場合によるのだろうと感じます。
だからこそやってはいけないのは、正しさを主張して対立することです。相手がまちがっていることが分かったとしても、自分の正義で他人を叩かないことです。
どちらも正しい可能性があるということは覚えておかないと無意識に誰かを傷つけてしまう可能性があるのです。
それは、自分の価値観だけでなく、相手の価値観を理解するということです。相手の価値観を理解するというのは、どこでも言われていることですが、視点を変えることにつながってくるはずです。
ただ、言葉は知っていても、具体的に何をすればよいかわからず、どのように考えれば良いかもわからない場合が多いです。
そのようなときはとりあえず俯瞰して考える習慣を身に着ければ良いと感じます。例えば、新しく入ってきた人がリーダーの立場を想像するというのは、物事を俯瞰して考えるということです。
どうしても新しく入ってきた人というのは、自分の視点でしか物事を見ることができません。知らないからです。それは仕方のないことですが、だんだんと幅広い物事を知ることができるようになると、視点を変えることができます。
あたりまえの話ですが、部分最適と全体最適は違うのです。リーダーは部分最適と全体最適を使い分けて、コミュニティを生き残るために何が必要か、何が不要かを考え続けなければいけません。
自分が絶対に正しいと思うこともあるはずです。実際にその通りであることもあると思います。ただ、その正しさを押し付けることによりどんな影響があるのかということは、正しさを押し付ける前に考えておいた方が良いのです。
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